徒然なるままに 2. 危機一髪 | 市川内科医院のブログ│実験室

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徒然なるままに 2. 危機一髪

2022年12月27日

これまでに、命に関わるような危険な出来事に遭遇した。思い出すまま、綴ってみたい。

1. 熊との遭遇:若いころは人があまり登らないような山ばかり登っていたので、熊との遭遇は数限りない。そのなかで、最も記憶に残っているは 1996年8月31日(土)の出来事である。野沢温泉村の小菅山頂付近、午後2時半ごろだった。当時は、地球温暖化などという事象はなく、8月下旬は涼しかった。たまたまこの日は気温が上昇し、長野市の最高気温が30.6°Cであった。現場は山頂に向かって穏やかな登りである。山頂から生ぬるい風が吹いていた。ふと見ると、10mくらい先に熊がいるではないか。撮影絶好! 風は熊から私の方に吹いていたので、熊は私に気付いていない。たまたまカメラは標準系のズームなので、望遠系のズームに変更しようと、屈み込んでザックの中からレンズを取り出そうとした。レンズ脱着の音を聞きつけた熊が、私に向かってウォーッと吠えて、地響きを立てて襲ってきた。私は思わず立ち上がった。熊は私の1mぐらいまで近付いたが、それ以上は接近してこなかった。熊は四つ足を地につけて、私を見上げていた。私は荒っぽいことは避けたかったので、手の甲を熊に向けて「行けよ」と合図した。私のボディー・ランゲジを読み取ったのか、熊は後ろを向いて、もと来た方向に駆けていった。最初に親熊を見た場所に子熊が2頭いて、近くの木に登ろうとしていた。親熊は子熊を守ろうとして私に挑もうとしたが、私はが全く闘志をみせなかったので、安心して子熊のもとに帰ったのだろう。私は取るものもとりあえず、現場から過ぎっ去った。襲われなくて、よかった! 子連れの熊に行き会ったら、逃がしてやるような意思表示が必要だ。もう一回は、娘と志賀高原の大倉林道を散策していた時で、この時も約10mぐらい離れていた。山の斜面の水平道を回り込んだら、その先の曲がり角に親子熊がいた。思わず逃げようと身構えたが、向こうも私たちに気付き逃げてくれた。助かった!

2. 滑落:1968年11月初旬、私は大学4年生 場所は北アルプスの五竜岳登山道の遠見尾根上部、前日の降雪が30cmほどあった。買ったばかりの中版カメラの試写も兼ての登山であった。目的地まで登り、満足して帰途の最中に滑落は起きた。シャッターチャンスがあるかも知れないので、カメラを三脚に付けたまま右手に持って尾根道を下っていた。尾根はやせていて、両脇はスパッと切れていた。右手に見える鹿島槍ヶ岳のカクネ里があまりのも素晴らしく、見とれて歩いていた。その時、登山道を横切る灌木の根に足を取られて、北斜面を滑落してしまった。右手に持った買ったばかりのカメラを落としたくないので、フリーになるのは左手だけである。だんだんスピードが上がって、どうしても止まらない。その時、生えていた灌木に手が届き、しっかり握ったら何とかスピードが落ち、それ以上の滑落を免れた。後で気付いた。カメラと命と、どちらが大事なんだ!

3. 列車に乗り遅れそうになった:1963年3月 私が高校2年生の時であった。 北陸線青海駅で糸魚川方向に向かい客車に飛び乗った話である。糸魚川駅で待ち合わせていて、私は一つ富山寄りの青海駅から乗った。用事をしていて駅に着いたら列車は発車寸前であった。プラットホームに着いたら、列車はゆっくり発車しはじめていた。この列車に乗らなければ約束の時間に間に合わないので、無理して乗ることにした。当時の客車の乗降口は扉がなく、列車が走りだしても乗降できた。列車と一緒に走り、昇降口の取っ手(レバー)が後から追いついてきたら、それに捕まって飛び乗ろうと算段した。レバーが来たのでそれに捕まったら、ぐんと体が引っ張られ、列車と同じスピードになったので、列車に飛び乗った。無事、乗れたからよかったものの、手を離したり、転んだりしたら大事故になる所であった。当時の、普通列車は機関車が客車を牽引するタイプで、便利ではあったが一つ間違えれば大事故になるところであった。当時の機関車は蒸気、ディーゼル、電気と様々あったがいずれもトルクがなく、加速が弱かったので、このようは危険なこともできたのです。ちなみに北陸線は電化されていたので、電気機関車でした。

4. オオスズメバチに刺された:あまり昔過ぎて記憶が不確かだが、1990年ごろだった思う。秋の暖かい日だった。カメラを持って東山の林道南線を散歩していた。ヨツバハギが咲いていたので花の姿を整えようと、ちょっと手を触れたその時であった。草むらからオオスズメバチが飛び出してきて、私の頭の天辺に止まった。思わず首を引っ込めたが、その時はすでに遅かった。「ガツン」という例えようもない衝撃が走った。痛みはじきに落ち着くと思ったが、全く予想違いだった。和らぐどころか、益々強くなるばかりだ。孫悟空が悪いことをして三蔵法師に金の輪「緊箍児(きんこじ)」をはめられた感じだ。慌てて家に帰って、抗ヒスタミンを注射したが、そんなものは全く効果がなかった。痛みは翌日まで続いた。幸い、アナフィラキシーにはならず血圧は下がらなかったが、とにかく痛かった。1週間ほどしたら頸のリンパ節が腫れていた。オオスズメバチは痛いから、気を付けた方が良いです。このころ、軽い山を散歩するときは帽子をか被らなかったらしい。それからは、どんな時でも、山では帽子を被るようにしている。髪の毛がいくら豊かでも、蜂がお尻を押し込めば針は頭の皮にすぐに達してしまう。

5.  キイロスズメバチに刺された:2012年9月16日午後、新潟県糸魚川市の梶山新湯(雨飾温泉)から、鋸岳を目指して歩き始めた。下山してきた登山者が「この先1時間ほど登ると小さな鞍部になるが、そのあたりではスズメバチが攻撃してくるから気を付けるように」と注意された。私はそのあたりでテントを張る予定だったので、気を付けて登ればいいや、と軽い気持ちで歩いていた。そのうちに、先ほど注意されたことを全く忘れてしまっていた。「そろそろ小鞍部に着くかなあ」と思ったその時、突然キイロスズメバチの群が襲ってきた。人の話では襲撃の時はカチカチ音がするというが、私は気付かなかった。この時は帽子を被っていたので頭は刺されなかったが、耳の後ろから後頚部を数か所刺された。痛さはオオスズメバチの時とは比べるほどもないほど軽かった。子供のころアシナガバチに良く刺されたが、その程度の痛さだ。アナフィラキシー・ショックが心配だったのですぐにテントを張って休んだが、幸い何事もなく翌日鋸岳に登って無事下山した。  #1 キイロスズメバチでアナフィラキシーを起こす人は、ショックになる前にエピペンを筋注します。私の医院でも処方できます。     #2 娘が小学校時代の登校中に、悪ガキがスズメバチの巣をたたき落とした。その直後娘が通りかかって、頭を目掛けて数頭のスズメバチに襲われた。娘は髪の毛を頭の後ろで束ねていたので、蜂に襲われたが針が頭の皮膚まで届かなかった。全く刺されることなく、登校できたそうだ。   (注)私のブログでは動物の数はすべて「頭」で統一してあります。生物学では「蚤」でも「象」でも、「1頭」は「1頭」です。

6.交通事故:(1)  1966年11月中旬  私は医学部進学過程2年生 黒4ダムの本体に入ってアルバイトをしたことがある。バイト先の会社員は私たちをダムの中に連れて行って、「工事個所は図面に示す30数ヶ所、やり方はああして、こうして・・・、このようにやれ。ただしアルバイトであることは死んでも口にだすな!」  それから4日間、ダムの外に出れば猛吹雪、ダムの内部は迷路みたいな複雑さの中を、重い工具を担いで素人だけでうろうろ、指示された工事も相棒が全く頼りにならない。 このバイトは、始めは私を含めて3人だったが、ダム本体の裏側に付けた階段の昇降が怖いとの理由で、2日目には一人抜けてしまっていた。(ダムの高さは186m、中央部はオーバーハングしている。移動の都合でダムの外壁に付けられた垂直の梯子を使わなければならないときは怖かった。下を見れば目もくらむような高さ、ダムの放水に加え吹雪が荒れ狂う、着ているジャンパーがばりばりに凍る。

結局期日までには完工できず、帰りに発注先の「○○組」の事務所に呼ばれ、さんざ油を搾られた。夕方遅くなり大町駅まで行く連絡車も発車してしまい、大町ルートを歩く羽目になった。(○○組の担当者は私たちがアルバイトであることを知らない。当然車でここにきていると思っている。まさか「足がないので、車で大町駅まで送ってくれ」とは口が裂けても言えなかった)  夕方6時ごろだったか。事務所でさんざ絞られた後、二人で真っ暗な大町ルートの左側の歩道をとぼとぼ歩いていた。そんな時、なんかふわっと足を取られ、宙を舞っったような気がする。気が付いたら道路から1.5mほど下の田んぼに頭から突っ込んでいた。幸いバイト先で貸してくれたヘルメットを被っていたので頭は無事であった。泥田の中から引き上げられたが意識はあり、歩くこともできた。たたきつけられたところが、軟弱な田んぼだったのが幸いしたらしい。加害者はバイクに乗っていた地元の土建会社の年配のおじさんで、仕事が終わって会社で飲酒しての帰りであった。すぐ後から同僚の小型トラックで通りかかり、私たちは市内の外科診療所に連れていかれた。院長の簡単な診察で「異常なし、翌日、大学病院の外科に行くように!」  事後処理に関しては、加害者は後ろめたいし、私も口止めされた先のバイトの帰りとは言い出せず、お互いに示談で済ませることになった。医療費は全部払ってもらったが、見舞金など一切なしで、全くのやられ損であった。その日はなんとか、下宿まで辿り着いた。

翌日、大学病院の外科へ行った。簡単な頭部X線検査位で、異常なしであった。ただ、全身の筋肉痛で歩くのもやっとだったが、それも数日で治った。後日、加害者から私の両親に連絡が入り「内緒で危険なバイトをしたこと、事故に会ったこと」がばれて、このことでも、さんざ親に怒られた。バイトの日当は、当時の相場の2倍ほどだったが、割に合わないバイトであった。

7. 交通事故:(2)1968(?)年8月  夏休みを利用して、バイクで東北地方を回った。車種はYAMAHA YA-5(125㏄、2サイクル)   朝、山形市内のバイパスを走っていたら2人乗りのバイク(250cc)が私を追い越していった。私は、時速50kmぐらいで道路の左端を走っていた。バイクは50km/hぐらいでも、高速(?)で走ると極端に視野が狭くなる。その時、先ほど私を追い越したバイクが、いきなりUターンして私の走行車線に飛び出してきた。避ける間もブレーキをかける間もなく、相手のバイクの右前輪に接触して、私は転倒したまま前方に約10mほど飛ばされた。意識はあった。左半身全体の打撲のほかに、左手の小指の先端が痛かった。(後で、放射線の実習で、手指のレントゲンを撮ったら(その時は繋がっていたが)、指骨第3節が折れていた。 幸いクラッチは握れた。ほかに、左前ウインカー・ライトとバックミラーが破損していたが、走行には差し支えなかった。今なら、相手のバイクの人に食って掛かったろうが、その時は私が後ろから追突したかも知れないと思って、警察に届けることもなく黙って引き下がってしまった。冷静になって考えれば、相手のバイクの進路妨害であることは明らかである。本来の予定ではもう一泊して中野に帰る予定だったが、ショックが大きくすぐに帰りたくなった。米坂線沿いのR113号を小国経由で新潟県坂町通過を考えた。しかし、前日の大雨でR113がずたずたの状態であった。仕方なく米沢に出て大峠を越えて、会津若松に出ようとした。しかし大峠も交通止めで、結局福島市→会津若松と走った。体がずきずきする中、会津坂下(ばんげ)まで走って、精魂尽きはててそこの旅館で泊まった。

8. スノー・ボードで転倒 :2010年(64歳)頃だったと思います。夜間瀬スキー場のメインコースをアルペンボードで滑っていました。私は以前から前のめりになって滑る傾向があり、この時もターンのきっかけでトップエッジをひっかけてしまいました。いきなりボードごと跳ねあげられ、そのまま頭から転落しました。幸いヘルメットをかぶっていたので頭は無事でしたが、7個ある頸椎のどこかの椎間が圧迫されたのでしょうか? 外傷性頸椎椎間板です。後頚部が痛み、そのあと右の1,2,3指のしびれが残りました。指のしびれは後まで残り、いまだにシャツの手首のボタンが嵌りにくいです。この程度でよかったです。ヘルメットをかぶっていなかったら、頸椎損傷で首から下が完全に麻痺してしまったかも知れません。

 

 

 

 

 

 

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