徒然なるままに 44. 身欠きニシン(鰊) | 市川内科医院のブログ│実験室

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徒然なるままに 44. 身欠きニシン(鰊)

2024年4月21日

はじめにお断りしておきますが、私のブログはきちんと調べて書いていないので、誤ったことが書いてあるかもしれません。もし、間違っていたら、教えてください。

スーパーで「身欠きニシン」(キャッチアイ画像)を買ってきました。「焼き魚に」と書いてありますが、焼いたら硬くて食べれないでしょう。昔は身欠き鯡は水で戻して良く煮て昆布巻きにするのが定番でした。私は戻さずヒジキと一緒に煮たけれど、ちょっと堅かったです。ただ、身欠き鰊は海藻とよく合うのでヒジキは正解でした。子供の頃私は「ミガキニシン」は「磨き鰊」だと思っていました。乾いた魚体が白くキラキラ光っていたからです。その後「身欠き鰊」と知ったのですが、どうして「身欠き」なのか、その意味か分かりませんでした。いろいろ考えて「身」は鰊の卵巣、つまり「数の子」であることに気付きました。つまり、雌の卵巣を取った後の、廃物を塩干したものなのだったのでした。卵巣の塩漬けの「数の子」は高級食材でしたが、数の子を取った後の鰊や、雄の鰊は廃棄物だったのです。そして、有効利用として「身欠き鰊」が生まれたのでしょう。

江戸時代になって物流が盛んになるにつれて、北前船(きたまえぶね)を使っての、近畿と北海道の交流が盛んになりました。京・大阪からは日用品や着物などが北海道に運ばれました。しかし、帰りの船に積む産物は少なく、殆ど空身で近畿圏に帰ってきていました。せめて少量の魚の干物や昆布ぐらいっだったのではないでしょうか。(その様な訳で、ニシンの昆布巻きは京料理だったのでしょうね)

中世以前の日本人の庶民の衣服の原料は「カラムシの繊維(苧麻)」でした。カラムシ繊維は糸としての品質は悪く、着(き)地も決して良いものではありませんでした。江戸時代に入り京の公家や大阪の商人たちの生活が豪奢になるにつれて、綿から採った木綿糸の布が必要になってきました。しかし、綿の栽培は肥料を沢山必要とします。そこで、廃棄物の鰊を樽に入れて、北海道からの帰りの北前船で輸送するようになりました。綿花の栽培は瀬戸内海に沿った地域、特に淡路島辺りが中心でした。  (余談ですが、江戸時代江戸の人たちの糞尿は、関東一円の農家の大事な窒素肥料でした。糞尿は高いお金で売買されました。明治以降、窒素肥料が工業生産されるようになり、糞尿は農家の買い上げが減りました。下水が完備されない頃、糞尿はオワイ船に乗せられ東京湾の先の太平洋に運ばれ廃棄されました。)

今、日本近海では鰊はあまり獲れません。写真のパックでも生産地はアメリカと書いてあります。ヨーロッパの北海沿岸でも獲れると聞いたことがあります。以前は北海道の江差町の日本海沿岸では大量の鰊が獲れました。浜には鰊漁の「番屋」が立ち並び、全国からは「やん衆」が集まってきました。鰊の大群(くきと呼ばれる)が沖の方からやってくると、産卵しようとしする鰊で海面が盛り上がったそうです。産卵が終わると雌が産卵した卵と雄が放出した精子で海が白濁したそうです。

 

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