徒然なるままに 37.沖縄 | 市川内科医院のブログ│実験室

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徒然なるままに 37.沖縄

2024年3月26日

藪から棒に「沖縄」である。私が沖縄を身近に感じたのは、昭和40年頃のことだ。大学に入ったとき、クラスに数人の沖縄から来たクラスメートがいた。当時、沖縄は本土復帰前で、沖縄の医療向上のため、国費留学生度を設けてあった。その制度で、彼らは全国の公立大学に入学していた。  私が医者になって務めた病院には、沖縄出身のT先生が務めておられた。2年ほどして、T 先生は沖縄県名護市の病院に外科医長として赴任された。別れ際に、私に、是非沖縄に来て欲しいと懇願された。

T 先生のありがたいお言葉を真に受けて、私が沖縄を訪れたのは1973年2月上旬のことだ。沖縄はその数ヶ月前に本土に復帰したばかりで、パスポートなしで自由に行き来できるようになったばかりであった。飛行機はキャンセル待ち、沖縄の宿泊先も全き行き当たりばったりということで、羽田を飛び立った。那覇空港に降り立ち、バスで  T 先生のおられる名護市に向かった。沖縄は鉄道が通じておらず、停留所ごとに停車するバスは、思いのほか時間がかった。 復帰間も無くで、アメリカ本土と同じで車は右側通行なのが珍しかった。土曜の午後で、T先生と面会する予定時間より若干早かったので、名護城址公園に向かった。真冬だというのに緋寒桜が満開であった。

T 先生が勤務されているのは公立病院だが、医師が5~6人のこじんまりした病院である。当時は、長野県内でも似たか寄ったかの状況であった。T先生はたまたま当直で、「今晩は医局に泊まって行け」とおっしゃって下さった。夕方になったら病院中の当直の職員が全員集まってきて、夕食会が始まった。私は同席した職員全員に大歓迎された。(と、言っても私を含めて4~5人だったが・・)私が「八重山諸島まで行きたいと思う」と話したら、石垣島出身の看護婦さんが、石垣市の病院に手紙(紹介状?)を書いてくれた。「これを持っていけば、ただで泊めてくれるよ」と言ってくれた。さんざ、もてなしを受け、翌朝 T 先生のお父上がおられる那覇市近郊の東風平(こちんた)村に向かった。

帰りはゆっくり座れたので、窓の外の景色を楽しんだ。宜野湾市辺りは米軍基地のフェンスがずっと続いていて、「やはり基地の島だなあ」と感じた。T先生が電話をかけておいて下さったので、東風平停留所には T 先生のお父上が迎えに来て下さっていた。お父上は村の郵便局の局長をされていたとのことだった。お父上宅では2泊させて頂いた。結局、本島滞在の3泊はただで泊めて頂いたことになる。T先生もお父上も、本土から来た私を「迷惑な奴」とは思われず、「よく来てくれた」と歓迎してくださったことが嬉しかった。沖縄の人は、「苦しかった過去と、まだ本土とは大きくかけ離れた現状をしっかり見て行って欲しい」と言う思いが強かったようだ。そして、その状況は今も変わらない。

翌朝、お父上は糸満市付近の南部戦績(ひめゆりの塔、)の見学に連れて行って下さった。辛かった戦災のことは何もおっしゃらなかったが、よく見て行って欲しいという思いがにじみ出ていた。この時は、まだ平和の礎(いしじ)はまだ出来ていなかったと思う。その日の夜は那覇市で開催された八重山諸島の民謡を聴く催しにも連れて行って下さった。歌と踊りを見せてくれたが、何か浮世離れした歌と踊りと衣装は印象深かった。沖縄は彌勒信仰が強く歌詞に沢山出てくるのだが、彌勒がミルクに聞こえておかしかった。

3日目の朝、東風平村を辞し那覇空港に向かった。この時の旅は全部空席待ちの安チケットで飛行機に乗った。石垣島に行きたかったがキャンセルがなく、仕方なく宮古島行きに乗った。乗った飛行機はYS-11 だったので面白かった。この飛行機は、国産のターボプロップ機で、ジェット機に比べて低空を飛ぶので景色が良い。搭乗して暫くは天気が良かったので、眼下に小さな島嶼(とうしょ)や綿摘み雲がポカリポカリと見えて楽しかった。宮古島空港に着いたら土砂降りの雨だった。植物園を見学して平良市に向かった。安宿に荷物を置いて、夕方レンタカーを借りて島内を回った。初めにも書いたが、この時期の沖縄は車は右側通行なのだ。だから、ハンドルは左に付いている。乗り始めて間もなく、畑中の一本道を走らせていたら、向こうの方から大型のトラックがやってくるではないか。トラックを避けようとして右に寄ったら、路肩を外して前後輪とも脱輪してしまった。トラックの運転手が近くの工事現場を指さして、ワイヤーロープを借りて来たら引っ張り上げてくれるという。ワイヤーロープをトラックのフックにひっかけて、何とか農道まで引き上げて貰った。これに懲りて、翌日の借りる予定のレンタカーをすぐに返した。右側のサイドステップがちょっと傷ついていたが、黙っていたら何も言われなかった。借りたレンタカーはもともと少し傷んでいたが、私の様な本土人がたくさんいたのだろう。

翌日は、同宿した(宮古島の古代遺跡の調査で訪れていた)本土の大学の先生がチャーターしたタクシーに同乗して、宮古島の東端の東平安名岬(あがりへなざき)へ行った。穏やかな太平洋が印象的だった。次の日は、バスに乗って島の北半分を巡った。サトウキビの収穫期であちこちの畑で農作業をしていた。台風が多いせいもあり、村の建物は堅牢で清潔感があふれ、かつ開放的であった。ブーゲンビリアが咲いていて、南国の樹木が沖縄らしかった。

以上、沖縄旅行の印象を記した。当時(今も)の沖縄の人はとても親切で、本土からの旅行者を大歓迎してくれる。しかし、今の本土の人は沖縄人の気持ちを理解いていないように感じる。沖縄の歴史と現状を知ると、心が痛む。最後に、石垣島の病院宛に書いて頂いた手紙だが、宮古島にしか行けなかったので、利用することなく持ち帰った。1年ほどしてして未開封のままの礼状を同封して、名護市の病院に送り返した。

 

 

 

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