徒然なるままに 41. 新聞を読んで・その12 廃物利用
2024年4月16日
この広告に違和感を覚えました。脱脂粉乳らしい何物かが入ったアルミの食器の前で、子供たちが笑っています。箸で食器をつ突いているようですが、説明文では中身は脱脂粉乳で子供は喜んでいるそうです。嘘でしょう、脱脂粉乳が美味しいはずがない! 私が幼稚園、小学校時代、昼食のお弁当(後に給食)の時間に脱脂粉乳が出ました。これが、不味(まず)なんてて言うものじゃないんです。焦げ臭くて変に甘ったるくて、とても人が飲める代物ではないのです。終戦直後、日本は過酷な食糧危機に見舞われていました。戦勝国のアメリカは unicef を通じて、「人道主義」の名目を掲げて日本の子供たちに「脱脂粉乳」を供与しました。
当時、欧米では牛乳からバターを取った廃物は、殆ど捨てられていました。大量の脱脂乳は川に廃棄すれば環境汚染になるので、乾燥させて焼くか、家畜の飼料にしていました。そこで、目に付けられたのが、日本の子供だったのです。(日本の子供は家畜か!) いまは食品を乾燥させて粉末や固形物にするのには、「凍結乾燥」と言う手技を使います。(このことについては、いずれ「実験室ブログ」で紹介します) 凍結乾燥で作られる食品は、スキムミルクや粉末ジュースがそうです。この手法で乾燥すれば、味は変わらなく美味しく食べたり飲んだりできます。 昔のアメリカでは、手間を省くためにバターを取った後の廃棄物は熱を加えて乾燥させました。完全に乾燥させるためにはちょっぴり焦げます。そんな訳で、当時日本に追いやってきた脱脂粉乳は焦げ臭いのです。焦げるほど加熱するので、栄養分も低下していることでしょう。
私は、給食の牛乳(幼稚園でも小学校でも脱脂粉乳とは言わなかった)が、大の苦手でした。先生に無理に飲めと言われて、全部飲むとたまに下痢をしました。(別に脱脂粉乳が悪くなっているのではないのですが、当時の私は神経質だったので、嫌なものを強要されると下痢しました) 一方、終戦直後の母は母乳が十分でなかったので、私はヤギの乳を飲んで育ったそうです。物心ついたときにヤギの乳を飲んだら生臭くて飲めませんでした。中野に引っ越してきて、町の牛乳屋さん(小さな工場)に、鍋を持って牛乳を買わされに行きましたが、やはりその牛乳の味と臭いは馴染めませんでした。 そんな訳で、子供の頃の私は乳に悩まされ続けました。それに比べれば、今の牛乳は美味しいです。
脱脂粉乳と聞くと、幼稚園や小学校の給食室に積み重ねてあった、大きな円筒形の容器を思い出します。ドラム缶の半分ぐらいで、筒の部分に英語で何か書いてありました。英語で書いてあるので何となく興味がありましたが、中身だけはずっと好きに慣れませんでした。厚紙の容器に入った脱脂粉乳は、船便で何日もかけてアメリカから運ばれてきたようです。船倉で高温、多湿の環境に晒され、衛生的に問題がなかったとは言い切れません。どうせ、家畜に食べさせる製品だから、品質なんて問題ではない・・・・、と言った感覚だったのでしょうか?
脱脂粉乳の広告の左側です。右側の広告で人道主義で訴えておいて、左側は寄付の強要でした。遺産相続の際、国に税金を払う位なら寄付しろと言うことらしいです。
いま日本では地震や津波の災害に合われた方のために、様々な呼びかけがなされています。何時、どの様な形で援助するかよく考える必要があると思います。 近年、欧米の国々は第3国や低開発国に自前の文化や宗教を強要してきました、 (おまけに、戦争をしてまで・・・) 余計なお世話ですよね。 自分の国の利益を目的に、人道支援の言葉を借りて様々な迷惑行為をします。今の日本も同じだと思います。
価値観の違いと言えば、例えば捕鯨の問題です。欧米ではクジラは鯨油を取ったらあとは捨てていました。(たまに、クジラのヒゲはコルセットの芯材に利用したとき聞きました。日本では肉はもちろん骨から皮からヒゲまで全部利用しました。脂身の鯨油を搾った残りは名前は忘れたけれど、コリコリしていておいしいです) いま、グリン・ピースが盛んに反捕鯨運動をやっていますが、これも欧米の価値観の押し付けですよね。私は、この時代に敢えて捕鯨をやって、クジラを食べるのを奨励するわけではありませんが、気違いじみたグリン・ピースの行為は反対します。 (ここで何でコルセットが出てきたかと言うと、中国の宋だか明だかの時代に、中国の纏足を健康に悪い風習だと諫めた欧米の宣教師の本国では、「宮廷や貴族の女性の胴を左右の手の指で回せる位に締め上げたではないか」と、反発した話を思い出したからです。)、もう一つ(鯨のヒゲは顔(?)に生えているわけではなく、口腔内で餌のアミなどを濾しとる器官です。よくわからないけど竹箒みたいな形をしているのでしょうか?)
話は飛びますが、鯨油は灯火の油にしました。燃やすと明るくて油煙が出ないので最高級の燃料でした。日本では菜種油が行燈の燃料でしたが、粗悪な油もあった様です。貧乏な家でたまに良質の油が手に入って使ったら、猫が舐めてしまって困った、などと言う話を聞いたことがあります。 油煙の多い灯火は目を傷めます。昔の民家は囲炉裏の火で煮焚きをしました。家屋の屋根に煙り抜きの小屋根が載っていましたが、冬は暖気が上にあがってしまい非効率的なので煙抜きの窓を閉めます。家の中は煙だらけで、幼子は目が痛くていつも着物の袖で目を拭いていました。角膜炎や結膜炎で目が見えなくなりました。冬の寒気がきつい、特に新潟県では子供の眼疾が多く、盲目の子が沢山いました。その子たちが食べていくために、瞽女(ごぜ)になったのです。瞽女に関しては、Web.siteを見て下さい。いろいろ書いてありますよ・・・ 話が、だんだん変な動向に進んでしまい、すみません!