私の本 55. 玉蟲左太夫
2025年3月17日
「われ 牢前切腹を賜る」後藤乾一著 作品社 この出版社は、関良基の「江戸の憲法思想」を出版している。(私の本・・28.参照) 幕末の幕府の先見性を書いた本を出版する珍しい出版社だ。私はかねがね薩長(官軍)の横暴ぶりを苦々しく思い、戊辰戦争の奥羽越列藩諸藩の悲劇を痛ましく思ってきた。
玉蟲左太夫は仙台藩の中流階級の武士で学問に秀でていた。若くして仙台藩を脱藩して、江戸湯島の昌平黌に入門する。そこで頭角を現し、再び仙台藩に招聘され、仙台藩の探索方を命じられる。日米通商条約締結の随員としてアメリカに渡り、帰りは左回りにヨーロッパ経由で記帳する。その時の経験が開国派の幕府の方針に理解を示す。帰国後、蝦夷地でアイヌ・コタンを訪れ的確な報告書を出す。当時、蝦夷地は松前藩の管轄であったが、松前藩は対ロシア政策、アイヌとの接触に難点があり、以後蝦夷地は幕府直轄地になる。その後、京都に赴き幕府方の会津藩(松下容保)、新撰組、松代藩の佐久間象山らと交流する。鳥羽、伏見の戦いのあと仙台に帰り、藩主(伊達慶邦)の相談役として活躍する。
官軍はあちこちでが勝利して(戊辰戦争で)、官軍が北進してくる。官軍(奥州鎮撫総督府)は鳥羽伏見の戦いで最初に弓を引いた会津藩を撃つように仙台藩に強要してくる。奥州鎮撫総督参謀の世良修蔵は特に意地が悪く、佐幕派の玉蟲らにつらく当たる。列藩同盟の面々は世良の横暴に耐えかねて、列藩武士が世良を殺害してしまう。仙台藩は窮地に置かれ、藩の意見は幕府擁護派と薩長方(官軍)に分かれる。戊辰戦争は鎮撫府側が有利な戦況で、玉蟲は榎本武揚らとは函館行きを企てるが、間一髪で同行はできなかった。いずれにせよ、玉蟲の生死は決まったいた。戊辰戦争の結果を仙台藩中枢が忖度して、玉蟲を処刑してしまうのだが、結果的に仙台藩は中央政府では冷や飯を食わされたのだ。
幕末の幕府方の悲運、薩長の横暴さは、近年盛んに論じられるようになった。明治以降、薩長支配の世の中になって、幕府の先進的な思想は忘れられ、世論は薩長支配の富国強兵政策に邁進していく。戦国時代中野の豪族(高梨氏)は上杉肩の武将で、江戸に入って兵農分離で会津若松、さらに米沢藩に従う。どちらも奥羽越列藩同盟の有力な藩であった。遡って、中野は幕府天領なので私は否応なしに開国佐幕である。さらに、娘が米沢市に住んでいるので、今は薩長が大嫌いだ。