徒然なるままに80. 伊福部昭のことば
2024年8月25日
伊福部昭の読後感想(実験室ブログ 私の本の読み方 22. 22. 伊福部昭について 2024.8.12 )だけでは勿体ないので、本文の印象的な部分をコピーして、解説を加える。この本は片山杜秀が伊福部昭にインタビューした記録を、文章に起こした評伝である。(コピーの字は小さいので、読まなくても良いです。興味があったら読んでみてください)
伊福部音楽の原点は、「庶民が生活の中で歌った旋律を換骨奪胎して、ヨーロッパで発達したクラシック音楽に乗せて歌い上げた」ことである。和服に例えれば、袖の長い晴れ着ではなく、機能的な筒袖の合わせ着である。片山はそれを「農民服」と言っているが、いわゆる「野良着」のことだと思う。京都の大原女の服装を想像してもらえばよいと思う。明治の郷土の画家、町田曲江だったか菊池桂月だったかの絵に、野良着の婦人2人(一人は手に鎌を持っていた?)が談笑している大作を見たことがある。普通、美人画と言えば晴れ着を着ている作品が多い中で、生活を感じさせる絵は印象的であった。 野良着と言えば、私の山スキーの先輩の竹前たか子さんのことも話したい。竹前さんのことは、以前にも書いたが、山行のスタイルがユニークだった。和装の野良着姿で山に登るのである。竹前さんにとって、野良着は山でも機能的な衣服であったのだろう。ズボン姿ならぬモンペ姿で山スキーを滑るのだから格好良い。 「普段着」の音楽と柳宗悦の「民芸」とは共通点がある。「普段遣いの食器の中に美がある」と宗悦は言った。
伊福部家の先祖は、スサノオノミコトでその子のオオクニヌシノミコトと繋がる。伊福部家は出雲(今の島根県)で神官を務めていたが、諸事情で北海道に移住した。伊福部昭の父は北海道で警察署長、その後東部の小村の村長を務める。伊福部の音楽の中に日本の長い歴史が込められているのだ。父親が村長だったのでアイヌ人との交流があり、伊福部は子供の頃アイヌの村(コタン)に入り浸ってアイヌの生活を経験した。札幌の町に住んだときはロシア人の弾くバイオリンに興味を持ったり、隣の町のおばさんが弾く三味線を聴いたりして、幅広く音楽を体験した。伊福部昭は東アジアからスラブ、さらにフランス、スペインの一部(ラテン系?)あたりの音楽に sympathy を感じている。伊福部昭の音楽を聴くと、私たちが普段聴くクラッシック音楽と全く異質な印象を受ける。伊福部音楽の伊福部音楽たる所以である。
本文・・・伊福部はこれみよがしにかたちの決まったものには敵意を示した。正調ナントカ節と名乗って歌詞も譜面もきちんと決めた自称民謡にはとても冷たく、そういう旋律をそのまま使って民俗主義的音楽を作っているつもりの作曲家にも手厳しかった。「民謡とはどんなものか、本当に分かっていない人がそういうことを平気でするんですな」・・・ ところで、民族主義的音楽の作曲家は誰だろう? 伊福部は自分からその名前を言わず、片山に言わせるのである。・・・「誰々」・・・、伊福部は大きくうなずき・・「そう」・・・。片山は、この本では書く訳にいかないから、あとは余白となる。 私は、その人の名は 外山雄三 だと思う。 外山は日本のクラシック音楽界を代表する大作曲家で大指揮者だが、彼の音楽は殆どが正調・・節の焼き直しなのだ。(外山さん、御免なさい)
伊福部が比較的早期に作曲した「土俗的三連画」の第二楽章(ティンペ)で使われているメロディーの話である。音楽評論家の柴田南雄さんが「東北地方の子守歌の旋律がきこえる」と言っているのに対し、伊福部は始めは否定するが、だんだんトーンが下がって、最後に・・・「東北の子守歌に、アイヌ語の歌詞をつけて」・・となる。 私は伊福部に興味がわいて彼の作品をいろいろ聴いた。 CDを何枚も聴いたが、「土俗的三連画」のCDはなかった。音楽配信にあったので何気なく聞いていたら、どこかで聞いたことのあるメロディーが聴こえる。伊福部に関しては珍しいことだ。伊福部の曲はどこかで聞いたことがあるけど、具体的に何々と指摘できない旋律のことが多い。 ところで、聴こえてきたのは、・・・・
昭和50年頃「赤い鳥」が出したLP にあった曲だ。土俗的三連画の第二楽章(ティンペ)では、「もうっこ」の旋律とは、一カ所だけ少し異なっているだけで、殆ど同じだ。Web. siteでは、「もうっこ」は、「化け物」と説明されている。 興味のある記載に・・・「もうっこ」は「蒙古」のこと・・・とある。鎌倉時代の蒙古襲来が、連綿と子守歌に歌われてきたのか? 「ねぷた」の由来とも関連あるらしい。
「赤い鳥」だから、真っ赤なジャケットです。昭和50年頃のアルバムです。発売年月日不詳 「竹田の子守歌」も載っている。