徒然なるままに96. 恩師 勝山則男先生
2024年11月20日
下の掛け軸は、作画の気持ちが登りつめた時に、勝山先生が描かれた松上双鶴図です。(先生に盾を点くようで申し訳ないのですは鶴は木の上には止まりません。木に止まるのは鴻(こう)の鳥です) 素人画家(失礼!) にしてはなかなかの出来栄え(さらに失礼!) ですね。
私は小学1年から3年まで勝山先生に教わりました。人格者で素晴らしい先生でした。勉強の教え方も素晴らしかったけど、教室では絵を描くことと、屋外に出て自然や草花の観察を教えてもらいました。私は先生の自然に対する気持ちに、大いに大いに影響を受けました。里山に行ってキンランを教わったり、野原でコバンソウを教えて頂いたのは懐かしい思い出です。今の私があるのも、先生の薫陶があったためと思います。
先生の晩年は、私が往診をしてあげていたので、そのお礼にとお若いころに描かれた掛け軸を下さいました。先生は下高井郡の中学校長までなされましたが、出身は上高井郡だったので、いろいろ辛い思いをなさいました。(信濃教育会は縄ばり主義で、他郡の出身者と言うだけで疎外されるのです) 晩年の先生はお寂しそうで、今でいうフレイルとサルコペニアで、食欲もなくやせ細っておられました。お若いころの先生は筋骨隆々で、若さに漲っておられました。そんな先生が、お若いころにお描きになった日本画を私に下さったときの、先生のお気持ちが痛いほどわかって悲しかったです。
先生には3年生まで教わりました。3年の後半に今は高名な画家の桜田晴義君が転入してきました。桜田君は当時から大胆な絵を描いており、勝山先生はその才能を認めておられました。桜田君が大画家になってから、寺澤宏三郎先生が「群率の画活動 奥信濃の戦後美術活動史」を出版され、その中で「勝山則男先生は桜田晴義の才能を見出された」と、書いておられます。勝山先生と寺澤先生は同じ上高井郡の出身で親しかった様です。