徒然なるままに97. 寺澤宏三郎先生
2024年11月21日
始めに、寺澤宏三郎先生原画の、平野小学校壁画を提示します。明るい素直な絵で、市民に親しまれています。
すぐ前の実験室ブログ、徒然なるままに96. 恩師 勝山則男先生 の続きです。勝山先生と寺澤先生は同じ上高井郡の出身で親交がありました。どちらの先生も美術に興味があり、親しかったようです。(以下、敬語,敬称を省略します) 寺澤宏三郎先生は中野市内で美術の教師をしながら、油絵を描いておられました。自然に当地区の美術界を代表する人になり、昭和61年には「群率の画活動 奥信濃の戦後美術活動史」を出版しました。この本の中で、北信地方出身の美術家、特に桜田晴義君のことに多数のページが割かれています。桜田君は国際的にも評価された、北信濃出身の大画伯です。
いまから25年ほど前に、私は寺澤先生から中野市教育委員会の美術品取得審査委員会に誘われました。市川は桜田と一緒に勝山先生から絵画の手ほどきを受けただろうから、そして、市川は写真をやっていて多少は美術に興味があるだろうから、との理由で私を誘ってくれたのです。この会は、岺樹会のお偉方を中心とした、中野市美術界の錚々たるメンバーが委員を占めていました。私みたいな門外漢が委員をやるのも面白かろうと、引き受けました。
当時の会長は寺澤幸三郎先生、そのあと、横田義治氏、家内徳重氏が委員長を歴任し、私は末席を汚してきました。私は一昨年退任しました。そんな経緯から、全く素人の私が油絵を描くようになり、攊珉展に出品した絵画が入賞しました。(自分のことばかり書いて、寺澤先生のことを書くのを忘れていました。話を戻します。)
寺澤先生は終戦直後に新時代の中野町の文化のけん引役でした。青年会を組織し、若者の交流を深めました。北信病院に事務職員として勤務していた松谷さんのお姉さんを通して、松谷美代子さんともお付き合いがあったそうです。このことは、松谷美代子さんの自叙伝「嬢ちゃん」にも書いてあるので、公表しても良いでしょう。お付き合いは結婚には至らず、お二方とも晩年まで独身を通されました。寺澤先生は陸軍士官学校に入学し、終戦で信大文理学部に編入っされましたが、家の事情で地元に帰り小中学校の美術教師を務められました。陸士と家が、今の東大出と同じくらいの秀才ですが、そんなことはおくびにも出さない、穏やかな先生でした。描く絵も分かりやすい、明るい絵でした。