ゆく河の流れ 76 油絵と漢詩 - 市川内科医院のブログ│実験室市川内科医院のブログ│実験室

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ゆく河の流れ 76 油絵と漢詩

2025年10月30日

光源の影響で右半分が暗くなってしまいました。相島謙次郎作「妙高山と神奈山(仮題)で、早春の風景です。相島は あいしまたかこ と絵画活動をしていました。私はこの絵 (12F) を40年ほど前に購入しました。ギャラリーのHP では、1号 4万円弱  です。良い絵だと思います。医院にいらっしたら是非ご覧ください。

患者さんから頂きました。秋になったので飾りました。頼山陽の七言絶句です。意味は、「(上杉軍は)ムチの音もたてないように静かに、夜に乗じて河を渡った。明け方、武田信玄方は、上杉の数千の大群が大将の旗を立てて、突然面前に表れたのを見て大いに驚いた。しかし、誠に残念なことには、この数十年来、一剣を磨きに磨いてきたのに、打ち下ろす刃(やいば)がキラッと光る一瞬のうちに、あの憎い信玄を打ちもらしてしまった。」です。   頼山陽は上杉方の気持ちになって読みました。武田方は大方の日本人には人気がありません。武田信玄の軍隊は戦の時、略奪と凌辱の限りを尽くし、「武田軍が通った後は、草木も生えない」と言われました。かたや、上杉謙信は僧侶であり、性格も柔和でした。後の徳川幕府にも愛され、江戸時代後半には米沢藩を治め、戊辰戦争では官軍と戦ったのでした。中野の高梨氏は上杉方の位高い武将でした。今でも中野には上杉のゆかりの寺社が多く存在します。以上のことは、川中島の戦いとはなんの関係もないけど、中野市民として書かせてもらいました。

Web. の記載から、私なりの解説を加えます。一般的に言う川中島の戦いは第4次の戦いです。武田方は松代ː町に隣接する海津城に、上杉方は町の西方の妻女山 に布陣しました。どちらも千曲川の右岸に位置し、両者間は2.2 kmしか離れていません。武田方は上田寄りにもう一軍を隠して、上杉を挟み撃ちする計画でした。俗に言う「きつつき戦法」です。武田は上田から攻める別軍の到着を待っていました。武田軍の期が熟し、明日は攻撃をかける前日、夕餉の煙が普段より多いことに気付いた上杉方は、夜陰に乗じて全軍千曲川を渡って、左岸に進軍しました。秋特有の川霧が晴れてみれば、対岸に上杉軍がひしめいているではありませんか。武田軍は大層驚いたと言われています。両軍は更に長野寄りの八幡原(大雑把に言えは川中島)で、刃を交えたのでした。

詩の解説で、「数千の上杉軍」とありますが、妻女山も海津城も平坦地はごく狭く、駐留できる兵はさほど多くはなかったと思います。しかも、2,2km しか離れていないのだから、炊き出しにせよ、渡河にせよ、相手方に気づかれないわけがありません。昔の日本の戦は今言われるほど大規模ではなかったと私は思います。両軍 30 騎づつ位ではないだろうか?

 

 

 

 

 

 

 

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