ゆく河の流れ 11. 私とラジオ その1. | 市川内科医院のブログ│実験室

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ゆく河の流れ 11. 私とラジオ その1.

2025年3月30日

NHKラジオが放送を開始して、100年経った。私がラジオを意識したのが5歳ごろだったので、およそ75年間ラジオと付き合ってきた。幼稚園年長の頃は、朝8時45分から15分間の「歌のおばさん」」を聴いて家を出た。当時、姉達は連続放送劇「鐘の鳴る丘」の主題歌「とんがり帽子」を聴いていた頃だ。1952年に私は小学校入学した。この頃、「新諸国物語」が始まると、兄弟集まってラジオを囲んだ。「笛吹童子」、「オテナの塔」、他にもあった。夕食後は、「二十の扉」だの、「三つの歌」だの人気番組を聴かせてもらった。

長野放送局の出力はたったの 0.5kWで、直線距離で25kmもあったので電波は弱く、当時の「並3」と呼ばれる一般的なタイプの受信機では聞きづらかった。我が家のラジオは高周波一段増幅(高1)だったので、不十分ではあったがまずまずは聴こえた。その後、家のラジオは1960年頃には5球スーパーになり、感度も音質も格段に良くなった。短波放送も受信でき、アマチュア無線も聴けて、大人になったらアマチュア無線をやりたいと思った。(開業して暫くしてアマ無線局を開局して、140Mhz(ツーメーター)、430MHz(ヨンサン)で通話したこともあった。)

上に、4人の姉がいたので、朝から晩まで頭の先から出る声で歌われて、いつもやかましかった。加えてラジオから聞こえる歌も聴こえ、私は当時の子供としては歌を良く知っていたと思う。姉たちが通っていた高校の校歌も覚えてしまった。「月見草の」(・・夕霧込めし草原に・・)だとか、作曲はベートーベンの「花売り」 (・・水打ち清めし朝の巷に・・)だとか、大人になって思い出しても懐かしい歌も知った。母からは、「青葉の笛」 (・・一の谷の戦破れ 討たれし平家の公達哀れ・・)」を教わった。歌の好きな家族だったが、父が歌う歌は、シューベルトの「冬の旅」のなかの「菩提樹」だけだった。  ・・・アン ブルーネン フォーデン トーレ ダ・シュテート アイン リンデンバウム・・・、その後は聴いたことがなかった。

このシリーズは長くなります。次回を、お楽しみに。

 

 

 

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