徒然なるままに 9. 旅と山のトラブル(その 3 )
2023年4月6日
1. 低体温 (その1) 1,975年秋 私が大学の駆け出しの医員のころの話である。医者になってすぐの時期、多忙であまりトレーニングをしていなかったころ。仲間を誘って白馬岳に登った。私がリーダーだったのだが、一番最初にバテてしまった。白馬の大雪渓を登り始めたら雨と霧が強くなってきた。ゆっくり歩を進めたが、雪渓を吹き降りる雨風が冷たかった。私は大雪渓を登り切ったあたりで、全く足が出なくなってしまった。幸いネブカ平(びら)の避難小屋があったので、そこへ駆け込んだ。濡れた衣服をタオルで拭って、体を温めたら間もなく回復した。登頂は諦めて下山した。麓に仲間の別荘があり、そこで美味しい夕ご飯を頂き、泊めてもらった。
2. 低体温 (その2) 1,982年秋 私は勤務医の仲間たちと新潟県境の苗場山に登った。昼前から冷たい雨になるとの予報だったが、登り口の栄村秋山郷小赤沢を出たときは曇っていた。暫くしたら小雨が降り出し、登るにつれ雨脚が強くなり寒くなってきた。山頂直下の池塘(ちとう)が点在する平坦地に着く頃は、土砂降りになった。その時、仲間の K ドクターの様子がおかしい。足が前に出なくて、立っているのがやっとだ。見れば、雨具を着ていない。初めから持ってこなかったと言う。登る前に、私がきちんと指示しなかったのがいけなかった。立ち止まったら凍死すると思い、山小屋まで引っ張り上げた。小屋の中はストーブがガンガン焚いてあり暖かかった。K ドクターは回復し、下りのころは雨脚も弱まり無事下山した。
3. 真っ暗闇 (その1) 1,968年10月中旬 前穂高の5,6のコルへ出かけた。日帰りだったので、懐中電灯(今ならヘッドランプ)は持っていかなかった。新村橋で梓川を渡り、コルに着いたときは、昼をだいぶ回っていた。コルにいた2人の登山者と話し込んでしまい、下山が遅れてしまった。2人はここから涸沢ヒュッテまで下るだけだから、1時間ほどで行ける。一方、私はいくら急いでも3時間はかかるであろう。新村橋を渡ったころは、日はどっぷり暮れていた。ここからは小型車なら通れる位の林道になるので安心したが、それは見込み違いだった。生憎月のない闇夜(たとえ月が出ていても狭い渓谷では山に隠れてしまうだろう)で、鼻をつままれても分からない。殆ど手探りの状態で歩いた。明神に着き河童橋に向かったつもりだったが、10分ほど歩いたらどうも様子が変だ。河童橋へなら下りになるはずが、ゆっくり上り坂なのだ。透かしてみたら遠くの方に大きな標柱が見える。「徳本(とくごう)峠に至る」と書いてあるではないか。明神で直進するところを、気づかず左折してしまったのだ。慌てて引き帰して、明神の売店で懐中電灯を求めた。生憎、売店には懐中電灯はなく、「こんなもので良かったら・・・」と電池が切れかけた電灯を渡された。(安かったが、ただではなかった) それがまたいけない。SWを入れると暫くは薄明るいが、すぐの真っ暗になってしまう。電灯が点いている間に遠くの方向を見定めて、そちらの方角に進む。分からなくなったら再びSWを入れる、の繰り返しで漸く河童橋までたどり着いた。 長野市のOKスポーツの店主で県遭対協会長だった丸山晴弘氏は、「日帰りでも必ずヘッドランプを持参すべし」と、常に協調されていた。
4. 真っ暗闇 (その2) 若いころの山行は山小屋泊りだったので、懐中電灯を持参する習慣はなかった。その頃の、懐中電灯は単1の乾電池2本の筒形の重い代物だったせいもある。1,969年8月 立山室堂から入って、剱御前、剱沢、仙人池を通って黒部川下ノ廊下の仙人ダムに着いた。ここからは旧・日電歩道と呼ばれている水平道を辿った。歩道と言えば穏やかだが、それはとんでもない道なのだ。黒部川の川床から200mくらい高い絶壁に「コ」の字形に刳り貫かれた細道が延々と続くのだ。仙人ダム脇の断崖は、いきなり隧道であった。手掘りの隧道で、照明などは全くない。ゆっくりカーブしていて、少し進むと真っ暗闇になった。壁を手探りで進んだが、足元はごつごつしていて歩きづらい。善光寺の戒壇巡りを思い浮かべて欲しい。トンネルを抜けて暫く行くと阿曽原に着き、その先も相変わらず懸崖の洞門道が続いた。仙人ダムから欅平までは直線距離で約6kmあり、その間に左岸から大きな沢を3本横切った。真ん中の志合谷は特に深く沢奥はトンネルになっていた。このトンネルも怖かった。U字型をしたトンネルの奥は真っ暗で、ここも手探りで進んだ。懐中電灯さえあれば何ともないのに、少しで荷物を軽くしようと持っていかなかったのが悪かった。
5. 情報欠如と暗闇 情報欠如と言うより下調べをしっかりしなくて山に入った私が悪いのだ。1,968(?)年9月 私が学生だった頃の話である。仲間2人を誘って唐松岳→祖婆(ばば)谷→黒部峡谷鉄道欅平駅コースを歩いた。前日,八方尾根を登って唐松山荘に泊まり、当日は早朝に山荘を発った。コースは2,600mの高峰から600mの黒部川床まで、標高差で2,000mも下る超ロングコースである。あまり人気のあるコースではないが、それにしても人通りが少ないのは気になった。半日かけて欅平に着いた。ここから黒部峡谷鉄道に乗れば1時間ほどで宇奈月に着くはずである。ところが、欅平には登山者が誰もいなくて、がらーんとしている。その辺で仕事をしている人を呼び止めて「宇奈月まで行きたいのだが」と頼んだが、「黒部峡谷鉄道は運休中だから、乗車できない」と言う。聞けば、8月18日の岐阜、富山県豪雨で黒部川流域も被害甚大であった。(飛騨川の土砂崩れでバス転落事故が起きた時です) 「黒部鉄道はここにきてようやく復旧したが、全線開通までまだ時間がかかる」という。「軌道敷を欅平まで歩かせて欲しい」と頼んだら、「規則でそれはできない」 そして、「軌道敷を歩くのは危険だから唐松岳に戻れ!」と言う。冗談じゃない。今から標高差2,000mを登るなどとは、死んでも不可能だ。たとえ戻れたとしても、明日の授業に出られなけらば大変ことになる。(医学部は普通の授業はともかく、実習はさぼると単位がもらえない) 「何とか通らせて欲しい」と粘ったら、「ここから一駅、約2.5km先の小屋平駅からは工事用の車両が出ているから、そこで話せ」と言われた。「ただ、トンネルの中は暗いから気を付けるように」と。線路の間の狭い軌道敷を歩いたが、2/3はトンネルで100mおきに暗い電灯が点っているだけで、間は真っ暗だ。不通だと言ってもいつ電車がやってこないとも限らず、2.5kmの道中をおっかなびっくい歩いた。小屋平駅に着いて、同じ事を言われたが、なんとか工事用の車両に乗ることができて、無事宇奈月に着いた。電車代は取られず、無料だった。
そもそも、出発前に黒部峡谷鉄道の運行状況を確認しておくべきだった。そして、泊まった唐松山荘でもしっかり確認して下るべきだった。さらに、道中人通りが全くないことも気付くべきだった。リーダーの私の一方的な不注意であった。この出来事の50年後、同行した2人のうちの一人と当時の話をして、「あの時、市川はトロッコ電車に乗れるよう、きちんと大人の対応をして立派だった」と、変なところで褒められた。
6. 黒部川物語 : その1. 山のトラブルはひとまず置いて、 ここでは黒部川流域の登山と電源開発の歴史を書く。黒部川流域へは、富山駅発の富山地方鉄道で黒部市に向かう。富山地鉄はここからは黒部川と並行して走り、宇奈月温泉駅に着く。宇奈月温泉から欅平までは、トロッコ電車として知られる黒部渓谷鉄道に乗る。一般者はここまでしか入れないが、登山者は徒歩で上流に向かう。このルートは、旧・日電歩道(あるいは、下の廊下コース)と呼ばれ、懸崖に穿たれた歩道を延々と辿る。いま、欅平から先の阿曽原、仙人ダム、黒部第四地下発電所までは関西電力専用鉄道が走っており、その先の黒部ダムまでは関電専用道路(全線地下)が通っている。ここは、一般の旅行者の通行はできない。
黒部川の電源開発について述べる。黒部川は北陸地方の富山県にあるが、水利権は戦前から関西の電力会社(日本電力、そのあと日本発送電)が持っていた。当時、関西の電力事情は悪く、電力需要増大時に度々停電した。大量の電力を瞬時に賄うために、水力発電の必要に迫まられていた。黒部川の電力開発が期待されていたが、難工事が予想された。この川の渓谷は深く切り立っていて、資材を運ぶにも人力に頼らざるを得ない状況であった。急崖に「コ」の字形に人の通れる洞門を穿ち、歩道を整え、資材を運搬する。難所はトンネルを掘削するなどして、ゆっくり上流に向かって開発していった。(現在は黒部川と支流の黒薙川に合わせて12ヶ所に発電所が建造されている) 昭和10年頃、仙人ダム建設、黒部第3発電所建設の資材運搬に供する鉄道トンネルの掘削にまつわる話は特に有名である。それは欅平から阿曽原、そして今の仙人ダム間を貫く直線距離で約6kmのトンネル工事でる。この辺りの山体は火山地帯で、そこを穿つトンネルは高温の熱水が噴き出す難工事であった。何人もの熱傷死者を出し、加えて作業員宿舎の雪崩事故などが重なり、途中何度も中止の憂き目も見た。このことは吉村昭著「高熱隧道」に詳しい。
黒3発電所と仙人ダムは昭和15年までにまで完成していたが、さらに上流に黒部ダムと黒4発電所を増設する計画段階で、戦争に入ってしまった。終戦後、黒部川電源開発の機運が高まったが、当時は仙人ダムから今の黒部ダムまで行くのには、断崖に付けられた危険な山道を辿るしかなかった。この直線距離で約10kmの区間は「下の廊下」と呼ばれ、現在も年間を通じて秋の短期間しか通れない難路である。通常、登山者は下流に向かって、黒部ダム~十字峡~仙人ダム~阿曽原~欅平の下りコースを辿ることになるが、距離が長く通過中気を許せる個所がほとんどない。特に黒部ダム~仙人ダム間の険路は一般の登山者が気軽に歩けるようなコースではない。
巨大な黒場ダムを建設するためには、多量の資材を運ぶ必要があり、大町市から後立山連峰の針ノ木ッ岳直下を刳り貫く針ノ木隧道(関電トンネル)が掘られた。北アルプスの脊梁(せきりょう)を貫く工事は、破砕帯の突破などの難工事で知られる。富山県にある黒部ダムは、長野県大町市側から多量の資材を送り込んで1,963年に完成した。この間に仙人ダム~黒部ダム間に自動車道地下トンネルや水路が掘られ、仙人ダム付近に黒4発電所が完成して、長かった黒部川の開発は終えることになる。
その 2. ここでは、黒部ダムより上流部の「上の廊下」と呼ばれる渓谷のことを書く。黒部ダムは高さ186mの日本の最大のダムであり、ダム湖の総延長は6.5kmに及ぶ。黒部川を遡行するには、まずダム湖の左岸に付けられた歩道を南下し、平渡船で対岸に渡る。暫く水平道を歩けば湖は終わり、水流が出てくる。上流部とはいえ流域面積は広く渓谷は狭いので、その水流はすさまじい。以前、滋彦は友人と上の廊下を遡上したのでその紀行文のコピーを掲載する。 以下
以上です。お楽しみいただけたでしょうか? 滋彦の肩書が「山岳アドベンチャー」になっているのが笑える。
その 3. 立山黒部・アルペンルート 富山から立山室堂を経て黒部ダム、大町市に至る観光ルートである。富山駅で富山地方鉄道に乗り替え、千寿ケ原から立山ケーブルで美女平、そこでバスに乗り室堂に向かう。室堂は立山劔連峰の登山基地である。室堂からは立山トンネルバスに乗り、立山・雄山の真下を抜けると大観峰である。ここからは黒部湖と対岸の針ノ木岳をはじめとする後立山連峰の眺めが素晴らしい。立山ロープウエーで黒部平まで降り、地下に造られた立山ケーブルカーに乗り、10分ほどでそこは黒部ダムである。(黒部ダムは、「黒部」と書いて「くろよん」と読ませるらしい) 黒部ダムは黒部川と立山黒部アルペンルートが交差する十字路になっている。ここから、トンネルバスで扇沢に出る。以前はトロリーバスが走っていたが、今はバッテリカーである。(いま、都会でもトロリーバスはどこでも走っていないが、当時乗っておいてよかったと思う) ここからはいわゆる大町ルートで、下り坂なのであっという間に大町駅に着いてしまう。
その 4. 黒部余話 このページの 4. 真っ暗闇(その2) で書いた、1,962年8月の劒沢~阿曽原登山の話。劒沢の近藤岩から仙人尾根を登った。ひと登りして稜線に着くと、そこからは剱岳三の窓雪渓が眼前に望めた。この雪渓はバリエーションルートとして使われるが、ここから見ると対斜面の関係でほぼ垂直に見える。「良くあんな急な雪渓を昇り降りできるなあ!」と驚嘆するが、実際に現地に行ってみればそれほどでもないらしい。同じことが剱岳登山でも起こるらしい。劒沢雪渓上部から少し登ると小ピーク(2,618m)に着く。ここからは武蔵谷コルを挟んで前劒が眼前に聳えている。ここでも、対斜面の影響で前劒の斜面はがほぼ垂直に切り立って見え、初心者は「とても無理」と引き帰す人もいるらしい。以前私は剱岳に登ったが、逆方向から来たので何も感じなくて通り過ぎてしまった。
仙人山の西肩に池の平小屋が、東肩に仙人池ヒュッテがあり、一般者は翌日の行程を考えて仙人池ヒュッテに泊まる人が多い。私は混雑を考慮して池の平小屋を選んだが正解であった。眼前に池の平山の大岩壁がそびえ、小屋はひっそりと静まり返っていた。小屋番のお爺さんと娘さんがいたが、とても物静かな人たちだった。食事は晩も朝も何かシダ科の植物(あとで図鑑で調べたがミヤマメシダかオオバショリマらしい? )の入 った味噌汁とたくあんだけだった。粗末な食事だったが、奥山に来た雰囲気が味わえてよかった。宿泊代も安かったように思う。
その 4. 黒部余話 ついでに・・・・ このページ長くなったが、山のトラブルついでに、もう一話書かせて頂く。いつだったか、滋彦と山スキーに行った。室堂から真砂岳に登って、ここでテント泊した。その日は黒部谷に向けて真砂沢を滑り、翌日室堂から一の越に登り返し、御山谷を黒部ダムに滑り降りる予定だった。翌日、室堂に降り、一の越に登り返す最中に私は持病の発作性頻拍症を起こし、登れなくなった。普通なら休めば止まるのだが、この日は緊張していたせいか治らなかった。仕方がなく滋彦だけ予定行動し、私は室堂に下った。途中で私の頻拍発作は治り、滋彦とは扇沢駅で待ち合わせて、大町温泉郷で風呂に入って中野に帰った。翌年、私はリベンジした。私の山スキーは自力で登って、同じコースを滑ることしかやらない。そのような訳で、朝いちで黒部ダムを発ち、昼前に一の越まで登り御山谷を滑り降りた。その時、沢に並行する稜線に沿って、長さ2kmにわたって延々と続く巨大な亀裂と、その下部の大量の表層雪崩の跡を発見した。それ以降雪崩の怖さを徐々に知るようになり、いつの間にか山スキーは止めるようになった。
最後に、黒部川を書くにあたって参考にした文献を紹介します。
左は、栗田貞多男(写真)著 A3写真集「黒部渓谷」です。黒部川の険しさ、美しさがとてもリアルに表現されてされています。
右上 栗田貞多男(写真)著 ミニ写真集 「黒部」 黒4ダムと黒部川が詳しく解説されている。滋彦の「黒部(上の廊下)溯行記」が載っている。
右下 吉村昭著 「高熱隧道」本文参照 この項、終わり
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