徒然なるままに 8. 旅と山のトラブル(その 2 ) | 市川内科医院のブログ│実験室

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徒然なるままに 8. 旅と山のトラブル(その 2 )

2023年4月3日

旅と山にはトラブルがつきものです。ここでは続きを書きます。

1. 大雨(その 1 )  一番思い出すのは学生時代に車で回った北海道旅行の出来事だ。出発は友人と二人だったが、友人は北大でスポーツ大会があったので、札幌で彼を置いて私は夕方士別(しべつ)に着いた。広い草原にテントを張って寝ることにした。後で考えてみると、そこは甜菜(てんさい)糖(ビート大根)の集積地であった。テントを張り終えた頃からぽつぽつ当たってきたが、しばらく風呂に入っていなかったので、町の銭湯に出かけた。

銭湯の帰りはものすごい豪雨になっていた。テントに帰りつくと、あたり一面水浸しであった。テントは水に浸かってぷかぷか浮いていた。とてもじゃないけど、テントの中では眠れない。かといって、車の中は天井まで旅の荷物が積み込まれていて、寝るところなんて全くない。見渡したら、遠くに明かりが見える。家の周りの水が就いていない所を借りようと思い行ってみた。そこは、ビート大根収穫の事務所だった。頼み込んで事務所の電話交換機の下あたりで寝かしてもらった。翌日は稚内まで走り、この日は旅館に泊まった。夕方、旅館の物干し場を借りてテントを乾かした。

2. 大雨(その 2 ) 40歳を過ぎたころ、中央アルプスを 山小屋泊りで縦走した。中野市内のスポーツ店で新素材の雨具を買って、雨への備えは十分のつもりだった。駒ヶ岳ロープウエイに乗り、朝いちで千畳敷に着いた。雨が当たってきたが、今日の予定は長いが、危険なところはないと判断して出発した。昼頃には雨が強くなってきた。高価な雨具も効果がなくなり、下着にまで雨が浸み込んできた。夕方、木曾殿小屋に着いたときは全身濡れネズミであった。宿泊を申し込んだら、「泊めてやるけど、着ているものを全部脱げ。ジャージーを貸してやるからそれを着ろ。ザックの荷物はここで干せ」と指示された。「そんなびしょ濡れでは、小屋が汚れて困る・・」とも。  翌日は快晴、半乾きの衣服を着て歩き始めたが、すぐに乾いた。

3. 大雨 (その 3 ) 2,010.8.13 60歳を過ぎ体力が徐々に低下してきていた。北アルプスの難所の登山はもう最後になると思って、小屋泊まりで穂高岳縦走を計画した。岳沢ヒュッテで泊まった翌日は、朝からものすごい雷雨であった。その日の登山は諦め小屋の中で様子を見たが、雨は相変わらず強い。ここからは前穂高岳の南面が見渡せるが、山全体が滝の様になっていた。棚という棚から雨が弾け落ちて、すごく壮観だった。普段は水流は全く見られない斜面も流れの早い川になっている。山全体がナメ滝になっているようだ。やがて雨が止んだが、登山道は荒れているだろうと思い、縦走は諦めて下ることにした。いざ下ろうと思って出発したら、普段は殆ど流れていない沢水が増水していて渡れない。暫く待って渡渉出来そうな水量になったので下った。(ナメ滝:)

4. 大雨 (その 4 )  1975年8月  南アルプスを縦走した。北岳山頂を通過したときは入道雲が発生し、あたりが薄暗くなっていた。中白根山(3,055m)を過ぎ間ノ岳(3,180m)に向かう頃、土砂降りの雷雨になった。この辺りは。広い平坦な尾根道であった。雷が起きやすい地形らしく、100mおき位に避雷針が立っていた。稲妻が走り、雷鳴がひっきりなしにきこえる。避雷針目掛けて真横に放電光が走る。ピカッと光るのではなく、長時間放電している感じだ。大気全体が帯電しているのだろう。大雨に加え雹(ひょう)まで降ってきた。雷に打たれたら危ないので、岩陰に身を寄せて避難した。1時間ほどで雷雨がやんで、農鳥小屋に向かった。小屋で夕飯を待っていたら、すごくきれいな夕焼けになった。上空が曇ってるのに西の空だけが明るく、幻想的な光景であった。(このときの経験から、避雷針が有効な理由(わけ)が理解できた)

5. 道迷い、大雨、ウイスキー   2002.5.4~6 滋彦と2人で黒部五郎岳nにスキー登山   岐阜・富山県境の飛越トンネル脇から山に入った。小雨が降りガスが巻いていて、視界が悪かった。登り始めて30分程で稜線にたどり着き、そこからは平坦で迷いやすい地形だった。残雪期のスキー登山なの、シュプールを辿れば問題なさそうだ。そこで、トレールは二股に別れ、私はシュプールの多い右俣を進んだ。間もなくシュプールが途絶え、間違いに気づき引き返した。そんなわけで30分の上、時間を浪費してしまった。滋彦は先に正確な道を進んでいるだろうから、と考え先を急いだ。暫く歩いていると、向こうの方から滋彦がこちらに向かってやって来るではないか。「おい、どこへ行くんだ」、「お父さんこそどこへ行くの」  結局、滋彦がリング・ワンダリングしていることが分かって、二人で正確なコースを進んだ。そのころから、雨がだんだん強くなってきていた。

お昼を過ぎたころから雨脚が強くなってきた。夕方になったが、目的地はかなり遠い。斜度がきつくなってきて、体が濡れてきて寒くなってきた。4時半過ぎ、目的地まで標高差で500mも下でテントを張った。狭いテントの中なので、夜中テントを伝う雨水が背中を濡らした、翌朝起きたら、下着はパンツの中までびしょ濡れだった。着替えなど持ってきていないので、そのまま着た。山、特に積雪期は下着はウールかアクリルに限るのだが、私はずぼらなのでいつもメリヤスである。これが災いした。この後は、晴れたので良かったが、登山中ずっとパンツの中や背中が濡れていて気持ちが悪かった。

その後の行程は意外とはかどり、昼過ぎテント場に着いた。私は30分ほど仮眠した。黒部五郎岳の山頂まで約1.5時間かかった。私は少し休んだから登りは快調に飛ばしたが、滋彦があまり元気がない。息切れがするようで、休み休み登ってくる。後で聞いたら、私が仮眠している間に、ウイスキーをちょっと舐めたという。もともと、滋彦は酒があまり強くないのだから、昼間の酒は禁物である。(寒かったので、飲んだそうだ)

 

6. 盗難  いまから25年ほど前だった。このころ、私は単独のテント泊まりの山行を良くやった。それも、いつも闇(やみ)テンだ。鳥倉林道末端で車を止め、1.5時間ほど歩いて、夕方になったので登山道の真ん中でテントを張った。まさか私が寝ている間に登山者は通らないと高をくくって寝た。明け方、ひとが通る気配がしたが、私は知らばくれて寝ていた。翌朝、私はテントを丸めて、藪の中に押し込んで出発した。三伏峠の先の権衛門岳まで登って引き帰した。ところが、テントを置いた場所には何もない。盗まれたのだ。私が登山道の真ん中でテントを張ったのに憤慨したのだろうか?それにしても盗んだ人が、ICIスポーツとでかでかロゴマークに入ったテントを、おちおち張っても落ち着かないだろうな。結局、テント一式、ガス缶、コッヘルが盗まれた。  (闇テン:普通、キャンプは指定地以外ではしてはいけない。無断で指定地以外でテントを張ること・・。 この言葉は田部井さんの「山の単語帳」には出てきません)

7. 置き引き  学生のころ、アルバイトをして貯めたお金で中古の一眼レフ(マミヤ SRT-101)を買った。松本からバイク(YMAHA YA-5)で150km ほど走り、天竜峡でバイクを止めた。長距離走って、頭がぼーっとしていた。お腹が空いたので近くの食堂に入って、カツ丼(伊那名物 ソースカツ丼?)を食べバイクに戻った。バイクに乗っていた時に、首から下げていたカメラがないことに気付いた。バイクの周りにカメラがないことを確認して、食堂に戻った。店主がいたので、カメラは見なかったか聞いたが、無かったという。それ以上、粘ることもできず諦めた。バイク周囲か食堂に置き忘れたことは間違いなかった。悔しかった。

8. 熱中症  昔は「熱中症」と這わなかった。「日射病」という言葉はあったが、自分ではそれがどんなものか知らなかった。小学校高学年だったと思う。夏の暑い日、我が家より低い集落にある友人宅から、中野の街を目指して上り坂をスピードを上げて登った。友人はすごい勢いで自転車をこぐので、私は負けじと坂を駆け上がった。我が家に近づいたとき目の前か暗くなり始め、家に着いたときは意識がなくなりそうな状態であった。慌てて部屋に入って横になったら、間もなく意識が戻ってきた。

1984.8.19 妙高山に登った。この時は開業して間もなくで、あまり運動していなかった。朝6時、燕温泉から登り始めたが、少し飛ばし過ぎだったようだ。山頂に近付いた頃フラフラになったが、「もうすぐ山頂だ」と自分を励まし、約4時間で山頂に着いた。山頂に着いたらなんだか様子が変だ。体に力はが入らない感じだ。しっかり休んで、ザックを背負って下り掛けたら、膝がガクッと折れて倒れてしまった。それでも、ゆっくり下っているうちに体調が回復して、何とか麓に着いた。

1,990年頃の初夏  戸隠山から西岳を縦走するつもりだった。この日は、長時間の山行になると思い、初めから飛ばした、難所の蟻の戸渡を過ぎて山頂に着いた頃、フラフラになった。団扇はなかったが、ザックの中をかき回して、風を送れそうなものを探して扇いだら、少しずつシャキッとしてきた。この時、初めて熱中症を実感した。結局、これ以上の行動は無理と諦め、西岳にはいかず引き返した。この時以来、夏山登山では団扇を持参するようになった。

2,000.8.13  新潟県笠堀川  滋彦に初めて連れて行ってもらった沢登りである。早朝、ダム湖の周囲につけられた歩道をたどり、広い川原を歩いた。笠堀川は大きな川で、入渓点までかなりの距離の川原歩きを強いられた。炎天下を2時間ほど歩いたら、様子がおかしくなった。滋彦は「もうすぐ入渓地点だから」と、どんどん先に行ってしまう。メロメロになって後をついて行ったら、滋彦が川の中に入った。私も川に入って胸まで水に浸かったら、あら不思議!急に体が軽くなった。それまでのメロメロか、急にシャキッとなった。  熱中症には、頭から水をかぶるのが一番の治療だ。マラソン選手が、給水所で頭から水をかぶるのは意味があるのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

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