徒然になるまま48. 私の人生を変えた3つのできごと
2024年4月25日
1) 高校に入って生物班に入ったこと:理科が好きだったので、生物班、化学班、物理班、アマチュア無線班、放送班のどれかに入ろうと考えていた。たまたま最初に生物班の班室に行き、雰囲気が良かったので、そこで一発で決めてしまった。理由は 1)自分がやりたいことができる事 2)山に行ける事であった。 生物班は昆虫(蝶)班や植物班、小動物(カエル)などのサブループグループがあり、私は中学時代から顕微鏡を覗くのが好きだったので、プランクトン班に所属した。プランクトン班は湖沼のプランクトンの研究で、高校2年生になって湖沼の生産量の研究をやった。結果を学校祭で発表し、班誌「吉丁虫(たまむし)」に報告した。大した研究ではなかったが、自分ではいっぱしの研究者になった気持ちがした。実際、この時の経験が、医者になって大学の医局時代の研究、論文執筆に役に立った。 もう一つ生物班に入って覚えたことは山登りである。週末になると飯綱高原や戸隠高原でテント泊した。土曜日は通学カバンの代わりにリュックザックを担いで電車に乗るので、同じ電車通の友人に訝(いぶか)しがられた。(当時は土曜も半日授業があった) 夏の合宿では6日くらいテントに泊まって研究や山行をした。 この経験は、その後の人生に大きな影響を及ぼした。自分で登りたい山を決め、ガイドブックを読んで計画を立て、誰にも頼らずに登山して、遭難せずに帰ってくることができるようになった。登山に関しては、大学時代に生物班の旧友たちと北アルプスの燕岳から常念岳を山小屋泊まりで縦走したのを最後に、以後は殆ど単独行で山々を巡った。山や自然を友とするようになり、大人になって週末といえばテントを担いで、人の来ない山野を彷徨う様になった。
2) たまたま、青医連ルームに顔を出したこと: 大学を卒業して医者になったが、当時私が所属していた青年医師連合(青医連)は、医局に入ること(入局)をボイコットしていた。週に一回ぐらい内科検診のアルバイトがあるだけで、あとは所在なくぶらぶらしていた。5月のある日、青医連の会議もないのに。暇だったのでたまたま会議室へ行った。そこに、同級生2人がきて、「これから小諸の病院のアバイト勤務の交渉に行くから、市川もついてこないか?」という。彼らは外科志望で、アルバイトをさせてもらいながら研修するという。当時、私は耳鼻科に入りたいと思っていた。電気工学が好きで、学生の頃から耳鼻科の医局に出入りしいていた。耳鼻科の講師が電気生理学の権威で、研究室には様々な測定器がそろっていた。私は、時々研究室に行っては、半田ゴテを握って電気回路などを組み立てて遊んでいた。たまに、患者さんを使った研究を見学させて貰ったり、自分が実験台になったりした。 青医連ルームで、「俺は耳鼻科をやりたいから行かない」と言ったのに、彼らは「とにかく着いて来い」と言う。仕方がないので、のこのこ着いて行った。後で考えてみると、彼ら小諸の外科の先生に「誰でも良いから、誰か引っ張ってこい」と言われていたらしい。そこへ私がのこのこ付いて行ったという訳だ。 彼らが病院の先生と話をしている間、私が所在なくしているところへ、内科の先生が来て「君はどうする?」と聞く。先ほどの話をして、「今日は着いてきただけ」と話した。そうしたら内科の先生が「耳鼻科をやるにしても、内科の知識はいるだろう。いま内科も人手不足で忙しいから、君にも手伝って欲しい」と丸め込まれてしまった。週1日の勤務で、前日の夕方来て翌日⒈日勤務して帰る。2~3回働いたら意外と居心地が良いので、気が付いたら内科の常勤の研修員になっていた。しかも大学病院の研修医なら無給なのに、ここでは少ないがそれなりの報酬が出た。 小諸に努めて2年間弱、青医連は解体して、同級生たちはぼちぼち大学に戻り始めていた。私が仲の良い病院の人に「そろそろ、大学の耳鼻科の医局に入る」と話したら、その人から「お前みたいに運動神経が鈍くて、不器用な男が耳鼻科医なんかできるはずがない。内科医ならはったりだけでやっていける」と言われ、なんとなくその気になって第2内科に入ることになった。2内でも電気生理をやれるかと思ったが、その道の専門医がいないので、生化学の研究(血液凝固・線溶現象)をやった。実験は面白く、気が付けば半田ゴテを握る代わりに、試験管を振っていた。2内は5年程いたが医局の堅苦しい雰囲気は性に合わず、県立病院を経て、40年前から開業医をやっている。今の生活が一番性に合っていると思う。あの時、青医連ルームに行っていなかったらどうなったかなあ? 試験管振りは止めてしまったが、半田ゴテは趣味で今でも握っている。
3) たまたま、 テルビナフィン塩酸塩(以下T)錠を飲んだ:趾爪の感染症(足の親指の爪の水虫)でT錠を飲んだ。文献に、「重篤な肝障害(胆汁うっ滞)が現れることがあり、死亡した例が報告されている。1ヶ月ごとに肝機能を調べるように」と書いてあった。飲み始めて1ヶ月もしないうちに、尿がやけに黄色くなった。慌てて血液検査したら黄疸があった。慌てて薬を中止したが、黄疸はどんどん増悪した。Al-P も上がり始め、2週間ほどして体がひどく痒くだるさも出てきた。大学病院2内の肝臓班の先生が毎日点滴するよう指示してくれたが、黄疸とAl-Pの上昇は収まるどころかどんどん悪くなった。たまりかねて、肝臓の権威の清澤研道元信州大学教授に見て頂いた。プレドニゾロンを処方して頂き、黄疸は徐々に軽快した。清澤先生に診て頂かなかったら死ぬところであった。清澤先生は診察のたびに私のお腹の触診をやって下さり、ある時「君はお酒を飲むかね?」とお聞きになった。 私「はい、私は酒が好きで、毎日3合を50年飲んできました」 先生「今の黄疸が治ってもお酒はやめなさい。君の肝臓はすでに固くなっている。このまま飲み続ければ、慢性肝炎、肝硬変症、肝がんのコースを歩むことになる」という訳で、そこでピッタリ酒を止めて、断酒原理主義者になった。 「血液検査の数値が正常だ!」などと言って、酒を飲んでいたら今頃お墓の下だったろう。 清澤先生は肝臓学の大家で、特に肝臓の触診に関しては神の手をお持ちです。私もたまに患者さんの診察で、大酒家の肝臓が固く触れることがあるが、大方の医者は肝臓の触診をやらないか、やっても肝臓の硬化を指摘できない。 大酒家の貴方、心配だったら清澤先生に見て頂いて下さい。
酒を止めて10年経つた。止めて人生観や価値観が変わった。毎日がやりたいことにあふれ、時間が足りなくて「一日がもっと長ければ」といつも思っている。趣味(絵、読書、ブログ)はエンドレスなので、何時まで経っても終了が見えてこない。 その上これからやりたい新しいことが目白押しである。長生きするしかないと思っている。酒なんぞ飲んでいる暇はない。
という訳で、私の人生は行き当たりばったりだった。私は物の判断(特に買い物など)は、吟味せずに即断で決める癖がある。悪いことだとは思うが、人生を振り返って見てあながちそれも悪くはないと思う。