私の本の読み方 20.葭の渚 山荘記 若き実力者たち | 市川内科医院のブログ│実験室

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私の本の読み方 20.葭の渚 山荘記 若き実力者たち

2024年5月15日

「葭(よし)の渚」 石牟礼道子著  「苦界浄土」を書いた石牟礼道子の自叙伝です。面白かったし、読みやすかった。道子の祖父と父は石工で、一時は道路開削事業を手掛け、天草や九州本土で活躍する。しかし、二人とも気の良い性格で、他人に金を貸しては踏み倒され、最後には借金まみれになる。差し押さえされて家の中が空っぽになった時に、父親が押絵雛を作ってくれる。以下、道子の記載を忠実になぞります。「紙のお雛様を作るとき、ご飯をつぶして糊にする。その時、父は竹べらでご飯をつぶしながら、「ご飯はこのように、一粒一粒丁寧に潰(つぶ)すと糊になるのだ。丁寧に、丁寧に潰すのだよ」と話す。実は私も同じような経験がある。私が子供だった時親父が空に上げる凧を作ってくれた。その時に道子の父と同じ様なことを話しながら、「ご飯をつぶした糊は、「続飯(そくい)」と言う。弁慶の続飯という言葉があるが、弁慶は力は強いが短気で、ご飯を一度にたくさん続飯板に乗せて、大きな続飯ベラでごしごしつぶした。いつまでやっても滑らかな続飯ができないので、このことを「弁慶の続飯練り」と言うんだよ、と教えてくれた。道子さんのこの本では、「続飯」という単語は出て来ないので、道子さんはこの言葉を知らなかった様です。「そくい」の語源は「続飯(ぞくいひ)」だそうです。

その後、道子たちは水俣の町はずれの水俣川のほとりに移り住む。父は小さな家を自分で建て、道子はそこで多感な少女期を過ごす。そこは牧歌的なところ(大廻りの塘)で、戦中、戦争直後期まで日本に残っていた原風景であった。小川でタニシを拾い、海岸で貝を拾いカニを獲る。この時の経験がのちの人生に大きな影響を与えた。大廻の塘(とも)は川辺に葭(よし)が、海辺近くには葦(あし)の原があったと、道子さんは書いておられる。上げ足を取って申し訳ないが、この植物は同一です。正確にはアシなのだが、昔の人は語感が「悪し」と繋がるため、「ヨシ(良し)」に言い換えました。性格を「知」「情」「意」に分類すると、道子さんはすごく「情」に厚いヒトなので、人との付き合いは愛情が深いが、自然や科学知識は観念的です。

道子は、長じて小学校の代用教員を務め、その頃和歌も読む。和歌の仲間の自死を経験したり、高群逸枝を知る。その後、水俣病を知り患者たちと闘争を組む。それは「苦界浄土」に書かれている。そのような訳で私は「苦界浄土」を読むことになる。

山荘記は後回しにして、「若き実力者たち」沢木耕太郎著  全部で12人の、どちらかというと有名だがアウトサイダー的な生き方をした人物の評伝集である。評伝と言うには短いので、人物紹介エッセイと言った方が良いかもしれない。沢木のインタビューがさえていた。その中では、唐十郎と秋田明大などのアウトサイダー振りが面白かった。たまたま。唐十郎が最近亡くなって、アングラ演劇の思いを強くした。私の、医学部の同級生もアングラ演劇にのめり込んで、医者になっても演劇をやっていた、今はどうしているやら? 彼は学生時代から演劇に嵌って、信大松本キャンパスの演劇サークル「山脈(やまなみみやまなみ劇券を売り歩いた。私も観たが訳の分からない粗筋で、あまり面白くなかった。(失礼!)         この本の中で、誰の項だか忘れたが、ちょっと気になるところがあった。「ある人の行動がその人を通底する思想、主義と調和がとれている・・・」と言った記載で「主調低音」という熟語が出て来る。「低音」と言えば「音楽」?  音楽の「主調」はあまり聞いたことがない言葉だが、例えば「ハ長調」とか「イ短調」とか言ったものなのだろうか? それにしても意味が通じない。「主調低音」と言いたいのなら「通奏低音」だろう。沢木さんはあまりクラシック音楽には詳しくない様だが、この本の中で小澤征爾を取り上げている。

 

 

 

 

 

「山荘記」野上彌生子著  凝った装丁で、表紙は久留米絣の端布(はぎれ)が2枚貼ってある。表紙はブックケースを兼ねた様な構造である。出版社は暮らしの手帳社、花森安治が装丁している。武田百合子の「「富士日記」の様な内容かと思ったら、大違いであった。戦争中の東京空襲を避けるため、一年目は単身で冬を越す。場所は北軽井沢の高冷地で寒く、さらに食糧難で苦労する。そんな中でも軍や政府の批判を日記に記し、戦後に出版する。その思想はがすがしい。たまたま親父が買った本だったが読んでよかった。いろいろ、勉強できた。

 

 

 

 

本を読んだだけでは、著者が住んだ北軽井沢や、著者が乗った草軽電鉄のことが分らないので、地図で説明します。昭和30年発行の国土地理院の5万図である。彌生子が住んだのは中央、上方の法政大学村です。信越線の軽井沢駅に行くのに、北軽井沢から草軽電鉄に乗る。地図をよく見ると、画面まん中あたりを黒い線が走り、草軽電気鉄道の文字が見える。逆にさかのぼれば、信越線の軽井沢駅からまっすぐ北に延びる線で、草軽軽便鉄道ともいわれ、草津まで通っていました。軌道は狭軌道でトロッコと同じ幅です。「高原列車は行く」で、「汽車の窓からハンケチ振れば 牧場の乙女が花束投げる」の電車です。新軽井沢駅から九十九(つづら)折りの急坂を駆け登り、北軽井沢の高原を北上して、一旦吾妻川渓谷に下りる。そこからまた急坂を登り草津が終点です。たとえ話ですが「あまりゆっくり走るので乗客が高原に咲く花を摘み採って、戻って電車に乗った」だとか「狭軌道で保線が良くないので度々脱線した。そういう時は乗客を降ろして、力のある男どもが持ち上げて戻した」などと言われていた。実際に彌生子の記載でも「脱線で復帰に時間がかかった」とある。彌生子が住んだのは法政大学村(北軽井沢駅のすぐ東)で、夫は当時法政大学教授の野上豊一郎で、終戦後法政大学総長になるエリートです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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