徒然なるままに 5. 西丸小園筆・島崎藤村の肖像画 | 市川内科医院のブログ│実験室

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徒然なるままに 5. 西丸小園筆・島崎藤村の肖像画

2023年2月28日

キャッチアイ画像は、西丸小園女史が書いた島崎藤村の肖像画です。

本題に入る前に、私の私的なことを書きます。私の家から西町本通りを北に行くと、平和通りとの交差点に「山城屋」という薬店がありました。そこのご主人は中島次郎さんと言って、物知りのおじさんでした。若いころは飛行機(戦闘機?)の設計をされていたとか、人伝(ひとづ)てに聞きました。化学とか物理に明るく、生物も博学でした。私が子供のころ理科で分からないことがあると、親父に「庄中さん(中島さんの旧姓)に聞いてこい」と言われたものです。話が面白いので、中島家に入り浸っていました。

その後、中島さんが亡くなり、奥さん、奥さんの妹さんが相次いで亡くなられました。後を継ぐ方がなく、2009年に家を仕舞うことになりました。そのお宅は今は中野市に寄贈され、その後障碍者のグループホームに改装されました。その時、家を整理していて上の掛け軸が出てきたのです。最右端が全体像です。実物は今手元にないのですが、横幅50cm強、縦が約130cmぐらいだったと思います。

「それにしても、上手な絵だなあ」と感心して見ていたら家内が「絵の人は島崎藤村だ」というのです。この時、もつれていた糸が一本に繋がったのです。「そうか、この絵を中島さんに渡したのは西丸四方先生に違いない!」(西丸先生のことは、あとで書きます)       以下、順にこの絵の描かれた経緯と、中島家にこの絵があった理由を述べていきたいと思います。

写真の真ん中が藤村像の拡大で、左下に「小園女史」記載してあります。後で述べますが、小園は藤村の姪です。最左端は画賛の拡大です。達筆すぎて何と書いてあるのか分かりません。古文書が読める方に見て頂いたら、若菜集の中の詩文だと教えられました。「庭にたちいでたゞひとり秋海棠の花を分け 空なが むれば 行く雲の更に秘密を闡(ひら)くかな 伯父藤村の詩若菜集より 雲のゆくえを録す」と読めます。(島崎藤村 若菜集参照 ) 絵の持つ雰囲気と言い、画賛の文章といい何となく謎めいています。作者はこの絵は公開せずに、島崎家だけで秘存するつもりだったのではないでしょうか?

 

 

 

左上は、私が参考にした「若菜集」の文庫本です。ところで、小園女史って誰だろう? 右の図は「西丸四方著作集 Ⅲ 精神鑑定例集」の扉絵のコピーです。鷺草 西丸小園  ご母堂いさ子」  そうです、西丸先生のお母さんです。

 

 

左の「兜」は「西丸四方著作集 Ⅲ 精神医学拾遺」の扉絵で、作者は西丸小園です。右の「西丸四方著作集 Ⅱ 精神医学講義)「梅」は西丸静園で、西丸四方先生の御令妹です。西丸四方先生のお母様と妹さんは日本画家だったのですね。実は、西丸小園(いさ子さん)は、島崎藤村の姪に当たります。その辺のことはこの先で家系図でお示しします。そして、お二方の絵の師匠は野口小蘋、前田青邨と錚々たる方々です。野口小蘋は後で述べますが野口雨情の縁者でしょう。因みに、「蘋」は「ひん」あるいは「びん」と読み、訓では「うきくさ」です。  とりあげた、西丸四方著作集Ⅰ〜Ⅲは、以前中島次郎さんが「西丸先生から貰ったが、専門的ぎて読めないから董一郎君にあげる」と言って渡された書籍です。中島さんは、この本以外に西丸四方訳の「ヘルダリン」も下さいました。しかし、いずれの著書も私にとって難しすぎて、結局、扉絵の3枚を記憶にとどめて、積ん読本になってしまっていました。

ところで、最初にお見せした掛け軸は私蔵していても勿体ないので、木曽郡山口村(現・岐阜県中津川市)馬籠の藤村記念館に寄贈しました。寄贈する前に、私が写真に撮っておいたのですが、コンパクト・デジカメで撮って、L版にプリントしたのをコピーしたので、あまり良い画像でないことをお許しください。

西丸四方先生の事を書きます。西丸先生は東京大学医学部を出て、私が信州大学に入学したころは精神科の教授をされていました。とて気さくな先生で身内のことなども、私たち学生に包み隠すことなく何でも話されました。その中で「私は楠木正成の末裔です。そして島崎藤村は大伯父です」とおっしゃっていました。(写真下参照)   野口家と西丸(にしまる、さいまる)家は水戸藩の佐竹家に仕える重臣でした。とくに西丸帯刀(たてわき)は、野口家から西丸家に養子として入り、幕末から明治にかけて活躍しました。家系図を見ると、西丸家と作詞家の野口雨情は繋がりがあります。そして、四方先生のお母様はいさ(子)さん、画号は小園で、最初に掲げた藤村像の作者です。四方先生のご兄弟は高名な方ばかりです。俊樹さんは島崎家に養子として入られ、東京医科歯科大学の精神科の教授を務められました。震哉さんは食生態学者、登山家、探検家と多彩な方で、大町市木崎湖畔に西丸震哉記念館があります。そして静園さんは画家です。四方先生の曾祖父は島崎正樹(小説「夜明け前」の青山半蔵)で、とにかく西丸家、野口家島崎家は錚々たる家系です。

西丸四方先生は大学者で、しかもとても気さくな先生でした。私が医学部進学課程の時ちょっとだけ教えて頂いたことがあったのですが、かなり難しい講義だったと記憶しています。専門書も沢山出され、特に「精神医学入門」南山堂 は、医者以外の人に最も読まれている医学書と言われています。今も重版を重ね、今はご子息の甫夫先生が改定を加えられています。四方先生は精神科病棟を全国に先駆けて解放病棟にされたことでも知られます。

そんな先生が、昭和の末期ごろだったと思うのですが、北信総合病院の精神科に週に2日の外来担当で、中野に来ておられたことがあります。一日目の仕事が終わる夕方は平和通りを通って、中島さんが経営する薬店「山城屋」の角を曲がって、定宿の山崎旅館に帰られました。その時は、いつも山城屋に寄って中島さん夫妻と話されました。そのような中で、先生が書かれた著書や藤村像の掛け軸を中島さんに託されたのではないでしょうか。よほど、先生と中島さんご夫婦はウマが合ったようです。それにしても、御母堂がお描きになった藤村像をなぜ先生が持っておられたのか? なぜ、そんな大事なものを先生は中島さんにあげてしまったのか? 謎です。

西丸家と野口家の故郷はいまの北茨城市です。中野市と北茨城市は、中山晋平と野口雨情の関係で姉妹都市になっています。西丸四方先生のお孫さんは俳優の西丸優子さん(中野市出身)で、何か不思議な縁です。 (このことは、Wikipedia  で公開されているので、書いても良いでしょう?)

最後に、本稿で取り上げた書籍を紹介して、この項を終えます。

上段3冊 西丸四方著作集 「Ⅰ 精神医学講義 Ⅱ 精神医学拾遺 Ⅲ 精神鑑定例集」 専門書だが、一般人にも分かりやすい。

下段左 「精神医学入門」西丸四方著 現在の精神医学の標準的な教科書 症例欄が分かりやすい

下段中 「ヘルダリン」ランゲ―アイヒバウム著 西丸四方訳 難解だが、ヘルダリンの詩を読むだけでも面白い。

下段左 「藤村記念館講演集」 小園描 藤村像の掛け軸を藤村記念館に寄贈した際、記念館の学芸員から頂いた本です。

 

最後に、WEBで調べた島崎家の系図を載せておきます。手書きのメモですが、せっかく調べたので・・・・、間違っているかも知れません。  西丸四方先生の母「いさ」は秀雄の娘だと思うのですが、このメモでは抜けています。

 

 

 

 

 

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