徒然なるままに 15 . 思いつくままに | 市川内科医院のブログ│実験室

長野県中野市三好町1-2-10 TEL:0269-22-3366 長野電鉄長野線「信州中野」駅 徒歩6分

タイトル背景

実験室市川内科医院のブログ

▼ MENU

徒然なるままに 15 . 思いつくままに

2023年7月25日

1.生物と塩酸 : 「徒然なるままに 14. いま思うこと」(2023.6.24)の、4.ハンニバル・・・の項で、CaCl2+CO2+H2O → CaCO3+2HClの化学式を提示しました。サンゴ原虫が海水中の塩化カルシウムと炭酸ガスと水から炭酸カルシウムと塩酸を作ります。生物が塩酸の様な強酸を作り出すのは不思議な感じがします。実は、塩酸は有毒ではありません。昔の医者は胃の酸性度が低い人に塩酸を薄めて飲ませました。ヒトの胃液は塩酸でできています。胃液の酸性度(pH)は、1.5から3.5とかなり低いのです。胃壁の細胞には H+/K+ ATPアーゼが含まれていて、ATPのエネルギーを使って、H+(水素イオン)を細胞外に排出させます。細胞外の塩素イオン(Cl-)と結合して、塩酸ができます。サンゴ原虫の細胞内でも、同じ仕組みで塩酸が作られます。この機能は、水素イオン・ポンプですが、プロトン・ポンプと呼ばれます。

水素原子は、1つの陽子(プロトン)の周りを、1つの電子が回っています。水素の電子がとれた状態は水素イオンで、それは取りも直さずプロトン(P) です。最近、胃潰瘍や逆流性食道炎の治療薬で、胃液の酸性度を下げる (pHを上げる)薬がたくさん発売されています。製薬メーカーではそれを「プロトンポンプ・インヒビター(PPI)」と呼んでいます。「水素イオンポンプ・インヒビター」と呼ぶより、ちょっとしゃれていると思いませんか?

2.  長野県と信州 :  最近、ブログ「ゆるブル」のご主人が、ビールの名前に「信州何々・・」と命名して、「僕ら的には、信州 と言う言葉はあまり使わない」とおっしゃっていました。同感です。NHKのローカル放送で、アナウンサーが「信州の皆さん。こんにちは」と言う人がいます。私は、違和感を感じます。県民向けには「長野県の皆さん」と言って欲しいです。

長野県生まれで東京在住の井出孫六氏が、あるとき長野県木曽郡山口村馬籠で講演したその記録を読みました。(山口村は今は岐阜県中津川市に編入されました)  「東京では自分の紹介をするときは、常に信州人ですと言う。他県人はふつう新県名で言い、旧国名ではあまり言わない」と言っていました。他県人には信州の方が定着しているのですね。だから、他県から長野放送局に勤務したアナウンサーは、「信州」が出てしまうのでしょうね。

明治時代には信州(信濃)が長野県より一般的だったようです。信濃国は廃藩置県で、長野県と筑摩県になりました。その後、両県は合併して長野県になりました。旧・筑摩県の住民は北信の小村の地名(長野)が県名になるのに納得せず、何度も分県、あるいは県名の変更を要求してきました。ある時の県議会でこのことが議題になりました。深夜になっても結論が出ず、審議が膠着化したその時、議場の一角から「信濃の国」の歌声が聞こえ、それに唱和するように大合唱が始まりました。それ以降、分県、県名変更の話題は上がらなくなりました。北信地方の人も中南信の人の心情を理解し、長野より信州を使うようになったようです。それから100年以上たち、現代は長野県が一般化し、この言葉(長野県)をためらいなく口にすることができるようになりました。

 

 

3. 中野県の存在 : 明治維新の廃藩置県では、今の長野県(信濃)は中野県と筑摩県に分かれていました。江戸時代の中野町は天領で、写真(現・陣屋記念館)の左寄り辺りに代官所(陣屋)が置かれていました。明治3年の第二次中野騒動で陣屋が焼けてしまい、その後この地に中野町役場が築かれ、現在は記念館に変わっています。江戸時代、中野町は北信地方で一二を競う都市で、行政、経済の中心的な町でした。代々江戸の徳川家から代官が任命されてきましたが、代官は殆ど江戸詰めで中野に赴任することは稀だったようです。

中野県が存在したのは明治3年の半年程でした。この年の12月に第二次中野騒動が勃発し、明治政府はそのようは政情不安定なところに県庁を置く訳にはいかないとばかり、県庁を善光寺がある長野村に移してしまいました。それが、分県や県名変更問題(前記)につながっていくのです。

(また、その地区がどの県に所属するかも、重要な問題です。以前、この(実験室)ブログ、私の本の読み方 4. (2023.4.28) 「旅する文学」岐阜編 で、木曽・馬籠のある山口村が、今は岐阜県中津川市に編入されてしまった顛末を書きましたが、この件は返す返すも残念です。)

明治維新の地方自治は江戸時代の行政機構をそのまま利用したようです。徳川幕府が突然倒れて、新政府の行政が安定するまではかなりごたごたがありました。筑摩県は松本藩のあった松本に、中野県は天領だった中野が暫定的に県庁がおかれました。しかし、新政府になっていつまでも徳川幕府の遺産にすがっているわけにいきません。何か事があったら、新政府の意向に沿った地方自治に切り替える必要があったのです。そのような中で第二次中野騒動が起こりました。

 

 

4. 第2次中野騒動 :  中野県が長野県に移行するきっかけになったのはこの第2次中野騒動です。写真は中野市西条の五箇地蔵尊です。建物の奥に地蔵尊が祀られています。入り口に説明版があってそれを読むと、 「安永6(1777)年の第一次中野騒動のさい処刑された人々の亡霊救済のために建造された。明治3(1870)年の第2次中野騒動のさい、ここで首謀者5名の処刑が行われ、その後この地蔵尊は更に参詣者が増えました。五箇地蔵と呼ばれるようになった」  注1(五箇の由来は処刑者5名だったから子供の頃そう聞きました。もしかしたら真田丸の五箇山と関係あるかも?)   注2(江戸時代以降、中野では2回の一揆があったようです。両者を区別するため、私が勝手に第一次、第二次と名付けました)

第二次中野騒動も百姓一揆でその理由は、当時の年貢米の供出量が、米価が上がるほど供出量が増える、と言う不思議な仕組みで、百姓の負担が極端に増えたのが原因です。松代あたり(現・長野市)辺りから自然発生した一揆勢が、江部村、中野町の豪農や御用商人宅を焼き討ちしながら、代官所に攻め込みました。一揆勢は現在の木島平村、野沢温泉村に攻め込み、行政を助けていた民間の人の家に火をつけました。騒動後、政府は厳しい探索を行い首謀者5人を処刑、その他のめぼしい一揆参加者の処払(ところばら)いを行い、その一部は飯縄山麓の高冷地の開拓に携わらせたそうです。

最近、地方誌「高井」に面白い論文が載っていました。中野騒動の原因は、先に述べた米価説、幕末、維新の天候不順それに続く凶作説などが挙げられています。そして、もう一つに「中野騒動はけしかけられた」と言う説です。維新の地方行政は幕末の組織をそのまま利用していました。中野県に関しては天領の代官所の機能をそのまま残し、税収その他を賄っていました。明治に入って、中央行政府はいつまでも徳川時代の遺功にすがっている訳に行きません。そして、信濃の北のはずれの小都市(今の中野市)に将来の長野県(?)の県庁を置く訳に行かなかったのです。そこで、明治新政府は農民をそそのかして、一揆の騒乱を誘発したとされる説です。

一揆はまんまと成功し、明治新政府は善光寺のある長野に県庁を置きました。近くには権堂村もあり歓楽街も備えており、北国街道沿いで、将来の信越線の通過を見通しても、長野村は最良の地でした。このようにして、東北信は長野県、中南信は筑摩県が定着しました。それにしても、扇動に乗り捕まった百姓はたまったものではありません。何の褒美も与えられず、挙句の果て5人も処刑され、多くの人民が処払いされました。踏んだり蹴ったりです。

 

5.中野市江部の 山田家資料館です。山田家の当主は、代々山田庄(荘)左衛門を名乗っていました。江戸時代の中野代官所(陣屋)の運営は山田家の様な民間人の協力の下で行われてきました。江戸時代に入って田地開拓が盛んに行われるようになり、人口がどんどん増えて行ったとき、徳川幕府は天領である中野に実質的な運営を任せる民間人を指名して、行政を行いました。徳川幕府の発足当時、高遠藩の牢人(犯罪者という訳では無く、誰にも雇われていない武士、つまり浪人)だった山田家の祖先がこの地に呼ばれました。高遠藩は甲州の武田家の家来で、武田家は富士川水系(笛吹川、釜無川)の治水利水のノウハウを持っていました。また、戦略上の都合で土木工事に秀でていました。そのような理由で、山田家が中野の呼ばれたのかも知れません。延徳田んぼを開墾し、稲作、治水、利水、産米の現金化(例えば酒造り)を行い、山田家は今でいえば総合商社の様な組織に成長しました。幕末には庄左衛門は代官屋敷にも出向いて、行政の実務を手伝うようになりました。幕末の中野には、山田家のほかに篠田家をはじめとする大家が行政を手伝っていました。

山田家の果たした大きな仕事の一つに、延徳田んぼの干拓、圃場化があります。延徳田んぼはもとは千曲川右岸に広がる大遊水地でした。延徳遊水地は真引(しんびき)川が網の目のように流れていました。遊水地のど真ん中に篠井川と言う人工河川を掘削し今に至っています。山田家の役割もあったと思います。延徳遊水地が干拓され、千曲川の本流の水かさが増すと右岸、左岸の水田が度々洪水に見舞われます。上流部の右岸の小布施、須坂、左岸の豊野、長野の住民は築堤を競い合いました。そんな争いの交渉役も山田家は努めたようです。最大の工事は、上今井の瀬替え工事でした。(以前にもこのブログで書きましたが、いずれ取り上げます。最近、瀬替え工事で取り残された旧河川敷の遊水地化が計画されています。)

江戸時代の年貢は米でした。信濃の中野天領から江戸に向けて米を輸送するのは困難です。善光寺のある長野村や歓楽街のある権堂村、あるいは近隣の商都で米を売って換金しました。また山田家では江戸時代のある時期から酒造業も営みました。年貢は金に変えて江戸に送られました。

江戸時代の米作は、冷害などの気候変動に減収が恒常化していました。しかも、過酷な年貢米の供出が強いられていました。年貢米を供出できない農民は圃場を質に出して年貢を払いました。しかし翌年も収穫量が確保できなければ、質流れとなってしまいます。このようにして、質地地主は耕作面積を増やしていきました。

幕末、明治維新の中野天領の行政の維持は、民間人の協力の下で成り立っていました。第二次中野騒動のさいも、山田庄左衛門はたまたま代官所に詰めており、暴徒が庄左衛門家を焼き討ちしている際も、代官所に押し寄せる暴徒の鎮圧に努めました。騒動の日はたまたま現金を長持に詰めた役人が、江戸に向けて出発した直後でした。この現金は暴徒に襲われることなく東京(江戸)に送り届けられたそうです。

 

 

 

 

 

 

pagetop