「山の案内板を食べた木」の話
2022年11月11日
「山の案内板を食べた木」の話 市川董一郎
熊の湯から笠ヶ岳を目指して登山中、熊の湯から標高差で100m強、30分ほど登ったところで面白いものを見つけた。ヤハズハンノキの樹皮に標識が埋まりこんでいた。標識を設置して少なくとも50年は経っていると思う。樹の生命力の強さに驚いた。私の古い記憶では、熊の湯から笠ヶ岳までに何個かの標識が設置されていて、それぞれに番号が振ってあった。それが今も残っていたらしい。写真の字は「笠岳へ」と読める。
その看板の下に、釘で止められた2点が樹皮に巻き込まれて、ひしゃげた看板が埋まっていた。中央の大きな字は「笠ヶ岳」らしいが、その下の「箱根山 1439m(富士、箱根、伊豆P)神奈川、静岡」の意味が分かない。
写真3はヤハズハンノキの全体像である。ヤハズハンノキの名の由来は葉の形状が矢筈(やはず)に似ているからである。このことを医院のHPのブログに掲載したら、読者から「岩菅山のブナの木でも見た」との反響があった。どうも、樹肌がつるっとした樹木の方がこの現象が起きやすいようだ。一方、樹肌がごつごつした(死んだ組織が厚い)樹木では形成層と異物の間隔が厚いので、巻き込み現象が起きにくいようだ。樹皮がごつごつして厚い樹木としては、例えばブナ科ではミズナラやクヌギ、そして殆どの針葉樹だ。ここまで来るまでにあったコメツガの幹に打ち付けられた案内板は、まったく取り込まれた様子はなかった。
上の写真は2枚の看板が埋まったヤハズハンノキの大木の全体像である。昔は生木に指導票を打ち付けたが、今はこのような荒っぽいことはしないだろう。
熊の湯スキー場から笠ヶ岳に登るのには、第4リフト右のゲレンデの踏みあとを登る。ゲレンデからは、横手山がよく見える。標高1,790mで右折してトラバース道に入る。そこから約300mでヤハズハンノキのある曲がり角に着く。道はその先も水平道が続く。尾根や沢を忠実に殆ど水平に、正確には下り勾配でたどる。
この辺りの道は、あまりに忠実に等高線を辿るのが不思議であった。はたと思い付いたのは「もしかして水路?」、そうだ「寒沢堰だ!」 上の図は、大正11年 発刊の「下高井郡誌」のコピーである。寒沢堰は横手山の東斜面、群馬県吾妻郡のガラン沢の上流部より水を取り入れ、群馬・長野県境を隧道で越え、さらに角間川上流部でも水を取り入れる。ここからは、ほぼ水平に延々と水路は続いていた。
山ノ内町湯田中あたりから南東方向を見ると、笠ヶ岳から三沢山にかけて、延々と岩稜が連なっているのが見える。この間の尾根は、急峻過ぎて登山道はない。この尾根を忠実に辿るのは、さぞかし物好きな登山者だろう。水路は尾根の北斜面の急傾斜部に付けられた。難工事の末、明治30年に完成した。昔の水路工事の測量は、水の張った盆に木を浮かべて水平を出し、提灯の明かりで高度差を計ったという。その様な難工事にもかかわらず、土砂崩落や水漏れで実際に用水が通ったのは短期間だったらしい。
いま、寒沢の水田は、三沢山から流れる伊沢川の豊かな沢水が潤しているが、どうしてこのような難工事にチャレンジしたのだろうか? そのような訳で、寒沢堰の堰水は角間川上流部で角間川と合流して、下流で夜間瀬川に注いでいる。寒沢堰が使えなくなった時点で、水利権は八ケ郷用水が引き継がれた。昔は田水を得るために、死ぬような努力をしたらしい。
実は、私がこのコースで笠ヶ岳に登ったのは、今から55年も前の話で、その頃と今とはずいぶん様子が違っていると思う。ただ、ここまでの登山道はよく踏まれていて、指導票もしっかりしているので、笠ヶ岳へは初めての登山者でも安全に登れると思う。ヤハズハンノキの曲がり角の先、約1kmで登山道は水平道を離れ緩斜面を登るようになる。数100mで山田牧場-木戸池を結ぶ一般道に出る。一般道を辿れば、間もなく茶屋のある峠に出る。この一般道は志賀高原側で度々土砂崩落があり通行止めになるので、車で来る場合は注意してほしい。
峠の茶屋で一服したらここから本格的な登山になる。といっても、標高差は高々200m弱だから、早い人なら30分もかからないだろう。開けた階段状の急斜面を登って、岩の門をくぐったりハイマツを観察したりすれば間もなく開けた山頂である。