徒然なるままに 18 . 山で起きたいろいろなこと
2023年8月29日
1.森林軌道あとに入り込んだ:1992年8月 お盆休みは南アルプスの聖岳から光岳を縦走した。登山口は下伊那郡上村現・飯田市)遠山川上流の「便りが島」で、ここまで来るまで入れるはずであった。前もって上村役場に電話して確かめたら、「上村川、遠山川合流部の本谷口から、森林軌道あとの林道を遠山川に沿って遡る」ように言われた。本谷口に着いたのは午後6時半過ぎ。林道は遠山川右岸沿いにゆっくり登りになっている。この道は古い地図を見ると、森林鼓動になっている。明治時代、遠山川上流部の原生林は、信越線や中央線に敷設する枕木用に盛んに伐採された。伐採した原木は森林鼓動で搬出された。その後原生林は伐採し尽され終戦後森林軌道は廃止された。それが今も残っていて、この林道になっているのだ。
暫く走ったら様子が変だ。初めは太くて車が通った跡がはっきりしていたのが、だんだん狭くなり草ぼうぼうの林道になった。左側は見あげる急崖、右側は遥か下に通山川の流れが見下ろせた。道幅は車一台がようやく通れる狭さである。入り口から約3.6㎞でにっちもさっちも行かなくなり、左側の崖からの土砂崩れでstop 日没後で辺りは薄暗くなっていた。細道を恐る恐る200mほどバックして、Uターンできる広場で車中泊した。夜中に静岡の二人連れが通って行った。この先で幕営して明日の朝、便りが島へ向かうと話していた。
翌朝、私は荷物をまとめてトボトボ歩き出した。崩れかけた細道を北俣渡まで4.5km歩いた。この道では車は通れそうもない。それどころか崖沿いの廃道で一部崩れていて、もっと危険な所さえあった。結局本谷口から北俣渡までは、この道を通ってはいけなかったのだ。後で、便りが島の小屋番に聞いたら、正確な地図をくれた。初めから便りが島小屋に聞いてくればよかった。本谷口から北俣渡までは、下栗の里までは主要村道を上がり、下栗から北俣渡に向かう村道を進むのが正解であった。
北俣渡からは車の通れる村道になり、ここから便りが島まで(約7km)は通りかかった小型トラックに拾ってもらった。4日後の帰りも易老渡から北俣度まで、光岳だけからの下りで一緒になった登山者の車に乗せてもらった。コースを全部歩いたら大変なことになることであった。あの頃の南アルプス登山者は助け合いながら登ったものである。
崩れかけた廃道を歩いて、南アルプスの雄大さを実感した。そして、大昔の巨木が繁る大森林を思い浮かべた。日本の近代化を強力に推し進めた森林資源の獲得事業が、後世なってかくも無惨に大自然を荒廃させてしまった。そして。手つかずだった太古の自然が復活することを願った。しかし、今この地はリニア新幹線のトンネル工事が行われており、今より良くなる保証はまったくない。
2.前穂高岳でのトラブル : 上の地図を見て欲しい。前穂高岳周辺はものすごい岩場であることが一目瞭然である。等高線を細かく追うと、山頂は4本の尾根が伸びていることが分かる。1本目は真南に明神岳に延びる尾根、2本目は北東方向に延びる北尾根、3本目は北西方向の奥穂高岳に延びる吊尾根、最後は南西方向に延びる重太郎新道尾根である。前穂高岳は、四角錐のピラミッドのような山である。姿が整っていて、遠くから見ると美しい。前穂高岳はやや崩れた四角錐だが、奥穂高岳はきれいな三角錐、槍ヶ岳はきれいな四角錐である。
昭和42年頃、友人を誘って重太郎新道コースで前穂高岳に登った。無事、前穂高岳に着き、小休止したあと下りにかかった。下るコースはもと来た道を戻るはずであったが、おっちょこちょいの私は明神岳コースを下ってしまった。20分ほど下って、地図では前穂高岳と明神岳の中間あたりに来た時、道を間違えたことに気付いた。標高差で250mほど下ってきてしまい、もう一度登り返すのも面倒だ。北西方向を見ると重太郎新道尾根が指呼(しこ)の間に望める。ほぼ等高線伝いに踏み跡らしき道も見える。「エイ、面倒だ!」とばかり、ショートカット道を進んだ。斜度は思ったほどでえなく、重太郎新道に近付いた。しかしその先で鋭い岩稜が現れた。大岩が立ちはだかり、足元はすっぱり切れ落ちていた。大岩に抱き着くようにして、ステップを進めれば突破できそうだった。私は慎重に進み、なんなく通過して友人の到着を待った。そうしたら、友人は岩を背にして通過しようとしているではないか。「危ない。 岩を抱け!」大声に気付いた友人は、向きを180度変えて大岩抱きつき通過した。危ない所で、友人を死なせるところであった。それにしても、山(特に岩場)では、道を間違えたら、引き返すことに尽きる。
3. ゼンマイの支点: 2001.7.22 新潟県大谷川鎌倉沢は滋彦に引っ張らて行った。この年はさんざ滋彦に付き合わされたが、この沢は私にとってややグレードの高い沢だった。入渓口から冷たいダム湖の泳ぎがあり、その先も大きなスノ―ブリッジの通過や、難しい滝登りを強いられた。緊張で体が小刻みに震えていた。沢はだんだん狭まり、斜度もどんどん増した。難所が現れ滋彦は直進したが、私はそこで待機するよう指示された。滋彦はなんなく突破したが、「ここは難しいから、お父さんは右岸を高巻いて、詰めたら右方向にスラブをトラバースしろ」との指示してきた。指示通り、私は進んだ。スラブに着いたが、土付きの急斜面はとっかかりが全くない。「怖くて進めない」と大声を出したら、「所々に生えているゼンマイの株に掴まりながら、慎重に前進しろ」だと。冗談じゃない、ゼンマイなんて抜けたらどうするんだ。でも、指示に従うしかない。おっかなびっくり進んだら、ゼンマイは意外としっかりしていて、難なく通過できた。
漸く、滋彦と落ち合いほっとした。しかし、緊張で足ががくがくしていた。この先も、白滝の難所が控えている。一息入れることにして、ザックの中からかりんとうを出して、がりがり齧ったら急に勇気がわいてきた。弱気の原因は、シャリバテだったらしい。
沢登りを終えて、滋彦が言った。「ゼンマイの株は意外としっかりしているので、岩登りで困った時はビレー・ポイントに使ったこともある」と。ビレーとは、トップが滑落したとき、確保者がザイルで引っ張り上げられるのを防ぐため、何かにスリンゲを縛り付けておく対象物のことである。一般的には大岩や太い木である。それらがない時は、スリンゲをゼンマイに絡げて引っ張れは立派なビレーだと。(スリンゲ:真田紐をリング状にした短いザイル)