東江部周辺(山田家資料館2)
2022年3月25日
中野市東江部の山田家は、代々「庄(荘)左衛門」を襲名してきましたが、14代目の顕五氏は襲名されず、その宅地と家屋を中野市に遺贈されました。山田家には莫大な資料(古文書)が保存されており、いまもその解析が進められています。伊那高遠の仁科氏は甲州の武田氏の配下でしたが、山田家の祖先は高遠の人だったようです。その頃、上杉氏は徳川氏との戦いに敗れ、高梨氏と中野近辺の半農の武士は会津若松に去り、この地の農地を耕作する労力が欠けていました。そこに山田家の祖先が住み着いたようです。私の推測ですが、武田氏一族は笛吹川や釜無川、下流の富士川の治水、利水の技術を持っていて、徳川家が中野周辺を天領にするにあたり、当時は千曲川の氾濫原野だった今の延徳田圃の開拓を期待されたのではないでしょうか。また、天領から上がる税は米で江戸に運ぶのは困難で、金に替える必要があり、山田家は耕作、農地開拓、千曲川の治水、利水、米穀販売、さらに酒造業で、地域の経済を支えてきました。
中野は天領と言っても代官は殆ど江戸詰めで、代官所には数人の武士しか勤務していなかったようです。行政は山田家などの民間の力で賄われてきました。写真の蔵は善光寺地震の大洪水の後建てられました。内部は二つに分かれており、それぞれ「文庫蔵」と「質蔵」と呼ばれています。山田家は中野騒動で焼き討ちにあいますが、幸いこの蔵だけは焼け残りました。