池田町2丁目界隈
2021年1月8日
私の父の実家は、「北中屋(きたなかや)」という屋号の店で蚕の種(卵)屋を営んでいました。当時の蚕はウイルス病が蔓延し、収穫量は不安定でした。祖父たちは蚕の種をホルマリンで消毒する技術を編み出し、それを長野・群馬県内で売り財をなしました。父の兄弟は家業を継がず、祖父は昭和に入って店をたたんで松本にでてしまいました。写真はその父の生家があったと思われる辺りですが、古い家屋敷は今は残っていないようです。。
2021年1月8日
私の父の実家は、「北中屋(きたなかや)」という屋号の店で蚕の種(卵)屋を営んでいました。当時の蚕はウイルス病が蔓延し、収穫量は不安定でした。祖父たちは蚕の種をホルマリンで消毒する技術を編み出し、それを長野・群馬県内で売り財をなしました。父の兄弟は家業を継がず、祖父は昭和に入って店をたたんで松本にでてしまいました。写真はその父の生家があったと思われる辺りですが、古い家屋敷は今は残っていないようです。。