明治初期の中野町の製糸場
2021年3月13日
関長年筆 中野市史・歴史編(後期)より転載しました。明治6年に創業した近代的製糸工場の絵です。右上の説明文には「信濃国高井郡中野町製糸場水車器機略図」と書いてあり、機械を動かす動力が水車であったことが分かります。水車を回す水は付近を流れる更科堰(せぎ)から取り入れたと思われます。
それまでの製糸は「座繰り」という古い技術で生産されるため、生糸の品質は粗悪でした。海外に輸出するためには高品質な生糸を作る必要がありました。中野騒動から3年しか経たないのに中野ではこのような大規模の製糸工場を建てました。当時は、群馬県の富岡、福島県の二本松とともに、日本の三大製糸工場の一つに挙げられていました。しかし、施設の欠陥、収支の欠損などで生産量は伸びず、やがて閉鎖されてしまいました。その後もこの工場の近くに近代的な製糸工場(昨日のブログ)が建てられましたが経営は安定せず、中野の製糸業は須坂や上田や岡谷のようには発展しませんでした。