青柳城の石垣
2018年11月27日
青柳城は青柳城山の山頂にあります。この石垣は布目積みと呼ばれる積み方で、正面から見ると縦横がそろって布目に見えるのでこう呼ばれます。崩れにくい積み方で、戦国時代末期のものです。
青柳城はもともと青柳氏の城ですが、川中島の戦いのころは、武田晴信が居城してていたこともありました。武田氏が滅んだあと青柳頼長は上杉景勝に従い、当時の信濃守護の小笠原貞慶と青柳城、麻績城の覇権をめぐって争いました。一旦は和議を結ぶのですが、青柳頼長は深志城(松本城)で誅殺されてしまいました。その後は小笠原氏の家臣の松林氏が在番しましたが、慶長年間に廃城になりました。
青柳頼長の息子の青柳清庵はのちに真田家の家臣となり、真田昌幸の九度山行きに随行しました。昌幸死後も九度山にとどまり、最後は大坂夏の陣で真田幸村と討ち死にしたと伝えられています。 (以上 WIkipedia より)